2020年6月21日礼拝説教「それぞれの力に応じた援助」

 

聖書箇所:使徒言行録11章27~30節

それぞれの力に応じた援助

 

 直前までのお話で、ローマ帝国の主要都市のひとつであるアンティオキアにおいて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになりました。そのなかで、この地に教会が建てられたことも記されています。このお話より前、キリスト教会といえばエルサレム教会のみでした。ユダヤ、ガリラヤ、サマリアでもキリストを信じる者がすでに起こされていますが、彼らはあくまでもエルサレム教会に属する人々です。しかし新たに、アンティオキア教会が建てられました。しかも今日の箇所でエルサレム教会を支えるほどの有力な教会です。キリスト教会が複数存在する状況が、ここから始まります。複数教会が存在することで、教会どうしの関係が生じます。それは単なるご近所づきあいや同好会ではありません。教会が教会であるための一つの重要な要素なのです。そのことを今日の御言葉から学びたいのです。

 今日のお話は、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下ってきたこところから始まります。彼らは神の言葉を告げる人々であり、各地を回って人々に教える巡回説教者のような働きをしていた人々です。彼らが、エルサレム教会から遣わされてアンティオキアにもやってきました。そのなかにアガボという人がおり、“霊”によって預言しました。それは「大飢饉が世界中に起こる」という予告でした。このとき世界といえば、ローマ帝国を指します。しかし歴史上、ローマ帝国全土で同時に大飢饉が起こった記録はありません。ただ、各地で局所的な飢饉は起こっていました。アガボのいう世界中という言葉は「人の住んでいるところすべて」という意味を持つ言葉ですから、人の住んでいるあらゆるところで散発的に起きている飢饉を指していると取るのがよいでしょう。実際に、クラウディウス帝の時代(紀元41~54年)に飢饉がエルサエムを中心に起こっていたことが分かっています。紀元46年のことです。この事態を知ったアンティオキア教会は、それぞれの力に応じてユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めたのでした。そしてそれをバルナバとサウロに託して、長老たちに届けました。「援助の品」とは、繁栄しているもの、富んでいるもの、という意味の言葉です。しかしアンティオキア教会の弟子たちが、全員裕福だったわけではないでしょう。それぞれの力に応じて、提供できるものをそれぞれ寄せ集めてエルサレムの教会を支えるために援助をしたのです。

 裕福や貧困は、相対的なものです。周りの人々と比べて著しく貧しいならばそれは貧困ですし、著しく富んでいるならば裕福です。今日のお話で言えば、飢饉に襲われたエルサレム教会がアンティオキア教会と比べて貧しい状態に置かれました。そこでアンティオキア教会は、エルサレム教会を援助したのです。それをするにあたって、アンティオキア教会のなかで喧々諤々の議論があったとは記されていません。当然のこととして、これを行ったのです。それは、教会は違っても同じキリストに与っている一つの体だからです。これは通常、信仰者一人一人の単位で言われることです(一コリント12:12以下)。教会の単位でも同じです。だからこそ、一つの教会が苦しい状況に置かれたならば、それを支えることは当然なのです。言い換えるならば、教会が支え合うことをとおして、それらの教会が一つのキリストに結ばれていることが示されていくのです。この同じキリストに、わたしたちの教会も結ばれているということを覚えたいのです。キリスト教会として大切なことは、何よりもキリストにつながっていることです。そしてキリストにつながるということは、同じキリストにつながる教会と一つの体を形成することです。ですから不足の中で苦しむ他の教会を支えることは、単なる慈善活動ではなく、キリスト教会であるために必要なことなのです。

 今日の箇所においてアガボは「世界中に飢饉が起こる」と予告しました。この予告は今でも有効ではないでしょうか。現実に飢饉が起こっています。飢饉に限らずあらゆる不足に、世の教会が直面しています。このことは、教会の掲示板や個々に配布している機関紙などを見て頂ければ、知ることができます。特に昨今の新型コロナウイルスの影響により、なお様々な形での飢饉や不足が各地の教会を襲っています。これらに目を向けないでいて、教会はキリスト教会であり得ないでありましょう。逆に、もしわたしたちの教会に不足があるならば、他の教会に支えてもらうということをいたずらに拒んでもいけないでしょう。支援するだけ、支援されるだけのどちらかに偏ってはいけないのです。アンティオキア教会はエルサレム教会に支援の品を送りましたが、同時にエルサレム教会からの巡回説教者を受け入れて霊的な支援を受けていました。互いに不足を補い合い、支え合うことをとおして、すべての教会が一つのキリストに結ばれていることが示されていくのです。

 

 教会の歩みにおいて、すべてが満たされることはまずありません。お金がないとか、物が足りないとか、人が来ないとか、わたしたちの教会で言うならば建物が狭くて歪んでいるとか、何かしらの不足があるのです。わたしたちの教会だけでなく、すべての教会が何かしらの不足と共に歩んでいます。同じ体に結ばれた教会の持つこれらの不足や貧しさに、どう関わっていくべきでしょうか。教会に連なる一人の信仰者として、それらにどう関わっていくべきでしょうか。今日のような御言葉から、ぜひ教えられたいのです。特にわたしたちの教会は今、伝道所から教会になろうとしています。教会のありかたとしても、主に他の教会から支援される教会から、主に他の教会を支援する教会へと変わろうとしています。この時期に、しかもこのコロナ禍に直面している今、この教会に結ばれているわたしたちに対して、不足や貧しさとどう向き合うかが特に問われているように思うのです。