2020年5月31日ペンテコステ記念礼拝説教「真理の霊が結ばれる愛」

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章15~21節

真理の霊が結ばれる愛

 

 新型コロナウイルスによって会うことが妨げられているからこそ、礼拝で顔を合わせることができる喜びを思わされます。しかしなぜそれが、わたしたちにとってこれほどまでに喜びなのでしょうか。この時だからこそ考えたいのです。特に今日はペンテコステですから、聖霊に目を向けつつ、この問いに共に向き合ってまいりましょう。

 今日の箇所は、地上のご生涯を歩まれていた主イエスが弟子たちに語られた言葉です。この主イエスはしばらくすると天に昇られて、地上での歩みを終えらることになります。それは弟子たちとの別れでもあります。その時に備えて、主イエスはあらかじめ指示をお与えになりました。それが冒頭15節の言葉です。これは「守るはずである」とか「守るべきである」という思いを込めた言葉です(口語訳、新改訳参照)。主イエスへの愛は、主イエスの掟を守ることによって示されるべきものなのです。主イエスの掟とは、杓子定規なルールではありません。主イエスが望まれていること、主イエスの御心です。相手の望む行動をしてこそ、その人への愛は示されるのです。これは主イエスへの愛に限りません。夫婦愛でも友人愛でも同じです。

 一方、弟子たちを愛しておられる主イエスも16節で、彼らのために行動を起こすことが約束されています。主イエスが父なる神にお願いして、別の弁護者を遣わしてもらうような言い方がされています。しかしそれは主イエス御自身が送ってくださる弁護者でもあります(16:7)。それが真理の霊である聖霊です。真理とは、神の御性質を指す言葉です。ヨハネ福音書では、主イエスのお働きに対しても用いられている言葉です(1:17)。ですから真理の霊とは、神の霊でありキリストの霊なのです。主イエスはいずれ目では見えなくなります。しかしキリストの霊である聖霊が来てくださることによって、永遠に弟子たちと一緒にいるようにしてくださるのです。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができません。なぜなら世の人々は、主イエスを見ようとも知ろうともしないからです。世はキリストを受け入れないことによって、キリストの霊である聖霊をも受け入れることができないのです。しかし弟子たちはこの霊を知っていると、主イエスは言われます。彼らが主イエスを知り、愛しているからです。主イエスがいらっしゃるところに、キリストの霊である聖霊もおられるのです。主イエスが天に昇られたあと、主イエスは聖霊を送ってくださり、この聖霊が弟子たちの内にいてくださいます。キリストの霊である聖霊のいらっしゃるところに主イエス・キリストもおられます。このようにして、18節の言葉が実現します。このことは、弟子たちだけではなく主イエス・キリストを愛するすべての者に約束されています。宗教改革者カルヴァンはこの18節を「聖霊の助けを奪われている人は、みなしごである」と解説しています。聖霊が与えられなければ、誰もがみなしごなのです。これが主イエスを受け入れない世の姿です。聖霊の助けがなければ、わたしたちも同様です。しかし何の幸いか、わたしたちは主イエスに愛されて、聖霊が与えられました。20節の冒頭にある「かの日」は、聖霊が与えられた日と捉えるとよいでしょう。主イエスが父なる神との深い愛の関係のなかで歩まれたように、わたしたちも主イエスと深い愛の関係のなかで歩んでいる。このことが、聖霊が与えられることによって分かるのです。聖霊が与えられた者は、決してみなしごではなありません。自らがキリストの内で生き、キリストも自らの内にいてくださるという、深い愛の関係の中で生かされているからです。この愛の関係の中にいるならば、主イエスの掟を受け入れ、それを守ることは自然なことです。そして主イエスの掟を守る者を、父なる神は愛してくださるのです。主イエスもまたその人を愛してくださり、その人にわたし自身を現すと約束してくださっています。主イエスの掟を守り、主イエスとの愛の関係の中に生きる者に、主イエスは出会ってくださるのです。

 では、主イエスの掟とは何でしょうか。主イエスがわたしたちを愛されたように、互いに愛し合うことです(13:34)。この掟を守る者は、目で見ることのできない主イエス・キリストに出会うのです。主イエスの愛が、目に見える形でそこに現れるからです。互いに愛し合いなさいという主イエスの戒めを守ることをとおして、わたしたちはまさしく主イエスに出会うのです。わたしたちをそのようなキリストとの出会いへと導いてくださるのが、わたしたちの内で働いてくださるキリストの霊、聖霊なのです。

 

 ここで、最初の問いに戻りましょう。なぜ礼拝で顔を合わせることがこれほどまでに喜びなのでしょうか。それは、そのほうが互いに愛し合いやすいからであり、主イエスと出会いやすいからです。主イエスと出会うことに、わたしたちの喜びの源があります。いま礼拝を共にしているのは、キリストがわたしを愛してくださったようにわたしが愛することのできる兄弟姉妹です。礼拝に共に与る兄弟姉妹を愛することへとわたしたちは招かれています。このことは、ペンテコステにも深く関係しています。ペンテコステはもともと収穫を貧しい者と分け合って共に喜ぶ祭りです(申命記16:11)。ペンテコステ自体が、互いに愛し合う祭りなのです。わたしたちは、皆に愛されて居心地がいいからここにいるのではありません。わたしがここにいる兄弟姉妹を愛するためにここにいるのです。このようにして互いに愛し合うために、わたしたちにとっての収穫である聖霊が与えられ、わたしたちはこの礼拝を共にしているのです。そしてわたしたちが愛し合うその愛によって、主イエス・キリストは御自身を現してくださいます。この主イエス・キリストとの出会いにこそ、教会の礼拝に集うわたしたちの喜びの中心があるのです。