2020年5月10日礼拝説教「罪の赦しの証し人」

 

聖書箇所:使徒言行録10章34~43節

罪の赦しの証し人

 

 歴史的に見ますと、危機のときに自国第一主義のような考え方が強くなります。これは国だけには限りません。学歴でも、会社でも、生まれの地域でも、同じ考え方が起こり得ます。その根本にあるのは、今日の御言葉でいうならば「人を分け隔てする」ということでしょう。この当時のユダヤ教(キリスト教も含む)もまた危機の中にあり、ユダヤ人と異邦人を分け隔てるような民族主義的な傾向を強くもっていたようです。ペトロすらも、この考え方から自由ではありませんでした。しかし神は、人を分け隔てなさらないとペトロは語り始めます。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるからです。これは第一に、コルネリウスを指しています。「正しいこと」とは、施しを指す言葉です。隣人を愛する行いと言ってもよいでしょう。主イエスがマタイ22:36~38で教えておられる第一の掟と第二の掟が対応します。それを実践していたのが異邦人であるコルネリウスでした。彼に御言葉を届けるために、神はペトロを導かれました。この事実から、コルネリウスのような異邦人であっても、神を畏れて正しいことを行う人を神が受け入れてくださることは明らかです。

 続く36節からは、主イエスについて語られます。36節の原文において最初に記されているのは、「御言葉を、神は送ってくださった」です。ですからここでの「御言葉」が指しているのは、主に直前の35節であると考えられます。この言葉を、神はイスラエルの子らに送ってくださったのです。それはイエス・キリストによって平和を告げ知らせるという方法によって実現しました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です。36節を原文の語順にそって見ると、このようになります。37節で「あなたがたはご存知でしょう」とありますが、これは歴史的に起こった事実であるという宣言であろうと言われています。一方でこのときのコルネリウスは、熱心に旧約聖書に示された神を信じていましたが、主イエスのことはまだ知りませんでした。そのコルネリウスに対して、あなたが信じている神が、主イエス・キリストというお方をお遣わしになったことを伝えるのが、ペトロの説教の中心になります。38節もこれを示すために、神と関連付けて主イエスことが語られています。

 主イエスがなされた働きとして、人々を助けたことと共に、悪魔に苦しめられている人たちをいやされたことが挙げられています。悪魔に苦しめられている人たちとは、「悪魔に支配されている人々」という意味合いの言葉です(口語訳、新改訳聖書を参照)。また悪魔とは、旧約聖書のサタンの訳語として用いられる言葉です。サタンとは、告発者を指す言葉です。誰かを指して「お前は救われない、お前なんか愛されない」と告発する。それが、サタンである悪魔の働きです。この悪魔に支配されて自分と誰かを分け隔て、お前なんか救われないと告発する人々、あるいはそのような告発を受けて希望を失っている人々。このような人々が、悪魔に苦しめられている人たちです。このような分け隔てから、主イエスは人々をいやされました。このようにして、主イエスは平和を告げ知らせられたのです(36節)。

 主イエスがこのような働きをなされたのは、人を分け隔てならさらない神が御一緒だったからです。それにもかかわらず、人々はイエスを木に架けて殺してしまいました。しかし神はこのイエスを三日目に復活させて、人々の前に現してくださいました。主イエスが神によって油注がれたキリストであることがもっとも鮮やかに示されたのは、主イエスの復活によってでした。しかしそれは民全体に対して示されたのではなく、前もって神に選ばれた証人であるわたしたちに対して示されたのだと、ペトロは説明しています。確かにコルネリウスは神を熱心に信じているにも関わらず、主イエスに出会ったこともなければ主イエスの復活を直接示されてもいません。しかし決してそのような人々から主イエスが隠されているわけではありません。神は、主イエスの復活を示された人々を、その証人とされました。こうしてペトロは、今日の箇所でコルネリウスたちに主イエスを証ししているのです。この証しをしているのはペトロだけではありません。預言者も皆、イエスについて証ししています。預言者とは、旧約聖書の預言書の御言葉を指します。ここでも主イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証しされているのだとペトロは語ります。彼の証しは自分勝手なものではなく、旧約聖書に根拠をおいたものなのです。また預言書の証しの内容は、35節に記されたことの具体的な内容と言えます。人を分け隔てなく受け入れてくださる神の救いは、神から遣わされた主イエス・キリストの名を信じることによって実現するのです。これが、今日の箇所で記されたペトロの説教の結論です。

 

 結論としては大変単純です。主イエスの名を信じる人は、だれでも罪の赦しが得られる。このことにおいて、神はどんな国の人をも分け隔てなさいません。わたしたちも当たり前のように信じていることです。しかしわたしたちはこの信仰に生きることができているでしょうか。ペトロですら、当初は異邦人を分け隔てていました。それが当時の常識だったからです。そして現代の常識も、同じようなものではないでしょうか。肩書や能力や生まれによって人を分け隔て、そこから外れた人々が希望を失っています。しかしそのような世の常識を超えて神は、誰であれ主イエスの名を信じる者の罪を赦し、分け隔てることなく受け入れてくださるのです。これが主イエスキリストによって告げ知らされ、彼によって実現した平和です。この平和に生き、これを証しする者として、新たな一週間を歩みだしましょう。