2020年5月3日礼拝説教「聞くために、神の御前へ」

 

聖書箇所:使徒言行録10章23b~33節

聞くために、神の御前へ

 

 今日特に耳を傾けたいのは、今日の箇所の最後に記されているコルネリウスの言葉です。「主があなたにお命じなったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」。主の言葉を聞くために、神の前に出る。これは、礼拝です。今わたしたちも、通常ではないかたちですが礼拝に与っています。この礼拝とは、いったいどのような場であるのか、改めて示されたいと願っています。

 まずは27節までにある、ペトロとコルネリウスの出会いの場面を見てまいります。ここには「一緒に」(ギリシャ語で「スン」)という言葉が繰り返し用いられています。具体的に挙げてみましょう。まず23節。「翌日、ペトロはそこをたち、彼らと(一緒に)行った」。「ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った」。24節「コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めて(一緒に呼んで)待っていた」。25節「ペトロが来ると、コルネリウスは迎えに出て(一緒に会って)」。27節「話しながら(一緒に話しながら)家に入ってみると、大勢の人が集まっていた(一緒に集まっていた)」。

 この短い箇所に計六回、「一緒に」という言葉が用いられています。周りの人々が一緒に礼拝に招かれていくのです。礼拝とは、共同体の営みなのです。もちろん個人礼拝も大切ですが、その個人とは教会共同体に結ばれた個人です。今はパソコンの前に、一人でこの礼拝に与っていらっしゃる方も少なくないでしょう。しかしその場所では一人であっても、わたしたちは場所を超えて、一緒にこの礼拝に与っているのです。そしてわたしたちの周りにいる人々が、常にこの礼拝に招かれているのです。

 続いて28節以降を見てまいりましょう。ここにはペトロとコルネリウスのやり取りが記されています。特に32節までは、ここに至るまでのそれぞれの体験について語られています。まず28~29節で、ペトロが自らの体験を語ります。その冒頭で、もともとペトロ自身が持っていた律法理解が語られています。ここで言われている律法とは、あくまでも旧約聖書の食物規程を守るための知恵として実践されていたことです。当時のユダヤ人(特にファリサイ派)においては、これが律法と同じように教えられ実践されていたのです。けれども神はペトロに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。これは9節以降でペトロが見た幻に基づいています。神がこのようにお示しくださったから、招きを受けたとき、彼はすぐに来たのです。裏を返せば、もし神がペトロに幻をお示しにならなければ、彼はカイサリアには来なかったのです。自らの思いではなく神の導きによって、ペトロはそこにいるのです。

 続くコルネリウスの体験も見てみましょう。コルネリウスは、幻で現れた輝く服を着た人に、ヤッファに人を送ってペトロを招くように命じられました。輝く服を着た人とは、神の天使です(10:3)。神の天使に命じられたがゆえに、コルネリウスはペトロを招きました。天使の指示がなければ、コルネリウスはそもそもペトロを招くことなどなかったのです。

 このように、コルネリウスにとってもペトロにとっても、神の働きがなければこの出会いは実現しなかったのです。まさに神の招きによって、この礼拝へと導かれたのです。人が礼拝へと向かう行動を起こすことができるのは、神の招きがあってのことです。神が招いてくださっているがゆえに、いまわたしたちは礼拝に与っている。このことをも覚えたいのです。

 こうして礼拝へと導かれたコルネリウスの態度が、33節の「よくおいでくださいました」以降の言葉によく示されています。彼は神の言葉を語るペトロを、心から歓迎しています。これはペトロという人への敬意ではなく、ペトロが語る神の言葉への敬意です。コルネリウスは、神の言葉を聞く者として、神の前にいるのです。神の前に出るのは、本来であれば大変危険なことです。自分の隠したいところや醜いところはすべて、神の前にあらわにされるからです。ですから、コルネリウスが神の言葉を語るペトロを見てまずひれ伏したのは、ある意味で当然と言えます。この恐れにも関わらず、彼は神の言葉を聞くことを願い求めて、神の前に出ました。これは彼と共に礼拝に集められた人々も皆、同じでした。彼らは、危険を冒してまで神の前に自らをさらけだして、神の言葉を願い求めました。そのような彼らに、34節以降で主イエスによって実現した救いの言葉が、ペトロをとおして語られていくのです。これが礼拝によって起こったことです。

 さて、今わたしたちも礼拝の場にいます。神の前に出る恐れを持ちつつも、救いの御言葉を聞くことを願い求めているでしょうか。礼拝に臨む一人一人に問われています。本当に、神の言葉を聞きたいと願って、ここにいるでしょうか。自分の醜い部分を覆い隠したまま、今の自分の生き方を肯定し、後押ししてくれる言葉を求めていないでしょうか。神の言葉を聞くために、わたしたちは神の前に立たなければなりません。それは、自分の醜い部分が神の前にあらわにされるということです。その危険を冒してまで神の言葉を聞くことを願い求める人々に、神の救いの御言葉は語られるのです。

 

 サムエル記上3章で、主が少年サムエルに何度も呼びかけられます。しかし神が御言葉を語られたのは、サムエルの聞く姿勢が整ってからでした。御言葉を語られる神は、わたしたちの聞く姿勢を問われます。この神の前にいるわたしたちは、理想的な人、理想的な信仰者を装うべきではありません。自らの望む言葉ではなく神の言葉を聞くために、すべてを神の前に差し出して神の前に共に立ちましょう。そのとき神は、わたしたちを救う神の言葉をお語りくださいます。