2020年4月26日礼拝説教「人の助けと神の助け」

 

聖書箇所:創世記12章10~20節

人の助けと神の助け

 

 アブラムは神の民イスラエルの父祖であり、また信仰の父とも呼ばれます。彼は新約聖書のいくつかの箇所において、信仰者のお手本のような形で紹介されます。12章の始めでアブラムは、神がお与えになった約束に信頼して旅を始めました。その約束とは、あなたを大いなる国民にし、あなたの子孫にこの土地を与える、という自らの子孫に関するものでした。子どものいないアブラムと妻サライは、この神の約束に信頼して旅を始め、そしてカナンの地へやってきたのでした。しかし彼は、決して理想的な面だけを持ち合わせている人ではありませんでした。信仰とは、葛藤なしに神に信頼することではなく、自らの不信仰との闘いなのです。大切なことは、「この信仰の戦いにおいて、神がどのような助けを与えてくださるか」です。

 さて、神に導かれてカナンの地にアブラムがやってきました。しかしその地方に飢饉があり、彼はエジプトに下ることになりました。聖書は、彼がエジプトに避難する行動を否定的には描いていません。アブラムの孫にあたるヤコブとその一家も、後に神の導きによってエジプトに下ることになります。今日の箇所でアブラムがエジプトに下るのは、その出来事を先取りした記事だと言われています。そうであるならば、アブラムがエジプトに下るのこともまた、神の導きの一環であったと言えるでしょう。しかしその際、アブラムは自らの命に不安を覚えました。ここで神の守りに信頼することなく、策略によって身の安全を確保しようとしたのでした。

 彼は妻サライに、自分の妹と名乗るように命じました。これは完全な嘘ではありません(20:12参照)。ただし彼は、サライが妻であるという事実は意図的に隠しました。偽証と言ってよいでしょう。それによって自らの身の安全を確保しようとしたのです。妻を犠牲にしてまで自分を守ろうとしたアブラムへの非難を、よく耳にします。たしかに彼が妻を犠牲にしてまで身を守ろうとしたことは肯定されるべきではありません。しかしこの記事が描き出すアブラムの問題点の中心は、はたして妻を犠牲にしたことなのでしょうか。そのような道徳的な教訓が、ここで語られている中心ではありません。

 それを知るために、サライの姿を見てみましょう。後の記事で彼女は、夫に激しく意見する場面があります。そんな彼女が、ここでは非常に従順なのです。彼女も、この策略にそれほど拒否感を持っていなかったのではないかとわたしは感じるのです。なぜならサライは、神のような扱いを受けているからです。アブラムは13節で彼女に「わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」と言っています。「命も助かるだろう」とは「生きる」という意味の動詞です。あたかもサライが、命を与える存在であるかのようです。またエジプトに入りますと、ファラオの家臣たちが彼女のことを褒めました。褒めるは、ハレルヤのなかの「ハレル」と同じ言葉です。彼女はエジプトでも神のごとく讃えられ、ファラオの宮廷に召し入れられました。そしてアブラムは、身の安全を確保するだけでなく多くの財産を得ることができました。こうしてこの夫婦は、自らが望むものを得ることができました。しかし夫婦関係は完全に壊れてしまっています。それは彼らから神の約束が失われたことをも意味します。神がアブラムに与えられた約束は、彼の子孫に関するものだからです。夫婦関係が失われると、彼らの子孫に関する神の約束も失われます。つまりこの夫婦は、神が与えてくださった約束を反故にして、自ら望むものを手に入れたのです。ここに信仰の父であるはずのアブラムと妻サライの、一番の問題点があるのです。

 ここで主なる神が介入されます。主はファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせます。これをきっかけに、サライがアブラムの妻であることが明らかになります。こうして、アブラムとサライの夫婦関係が回復されました。神が、御自身の約束を回復されたのです。アブラムを多いなる国民とし、彼の子孫にカナンの土地を与えるという神の約束を、アブラムは捨ててしまったのですが、神は覚え続けられました。そしてその実現のために、神は行動を起こされ、この世界に介入されたのです。しかし、今回の神の介入は、ファラオと宮廷の人々からすれば、とばっちりと言えるかもしれません。神の約束を反故にして身の安全を確保しようとした中心人物は、アブラムです。しかし恐ろしい病はアブラムではなく、ファラオと宮廷の人々に下りました。なぜ神は、ファラオと宮廷の人々に手を下したのでしょうか。その理由は明確には示されていませんが、神の約束を回復するためにそれが必要だったということは確かです。御自身の約束を実現するために、神は行動を起こされるのです。それが結果的に、神に選ばれたアブラムの歩みを守ることにつながりました。なぜなら、神の約束とは、神に選ばれて召し出されたアブラムに与えられた約束だからです。

 自分の力ではどうしようもない状況に陥った時、わたしたちは、そこから抜け出すために神の介入を期待します。今、特にその期待が高まっているときではないでしょうか。このときわたしたちは、神が行動され、この世界に介入される目的を思い起こす必要があります。神は決して、わたしたちの望む世界をそのまま実現するために行動されるのではありません。しかし神は、御自身の約束を実現するためならば、行動を起こされるのです。

 

 ところでわたしたちの手にある旧約聖書と新約聖書の「約」とは、約束の約です。ここに神の約束が記されています。その中心は、主イエスの十字架と復活による救いであり、神が共にいてくださるという約束です。この約束のためならば神は行動され、必ず共に歩み続けてくださるのです。それゆえに聖書に記された神の約束にこそ、わたしたちの確かな希望があるのです。