2020年4月19日礼拝説教「ためらわず行け」

 

聖書箇所:使徒言行録10章17~23節a

ためらわず行け

 

 本日からまた使徒言行録の講解説教に戻ります。10章の始めから16節までにおいては、コルネリウスと使徒ペトロがそれぞれに幻を見ています。コルネリウスは、幻で現れた天使の指示に従って、二人の召使いと一人の兵士の計三人をヤッファに送り出したのでした。一方使徒ペトロの見た幻は、旧約聖書にある食物規程に関するものでした。これがこの当時、神の意図とは離れて理解されていました。そしてこれが、異邦人と神の民との隔ての壁となっていました。主イエスが現れた今、神はその隔ての壁を取り去られたのです。それを神はこの幻をとおしてお示しになったのでした。ただしまだこのときは、はっきりとした形でペトロにこの幻の意味が示されたわけではありませんでした。

 それに続く今日の箇所は、コルネリウスが遣わした三人の人と、ペトロが出会う場面です。コルネリウスが遣わした三人は皮なめし職人のシモンの家を探し当て、門口から声を掛けます(18節)。これが、コルネリウスに与えられた幻に従ってなされていることは明らかです。そして天使が告げたとおり、その家にペトロがいたのです。このときペトロはなおも幻について考えこんでいました。そんな彼に“霊”が語られます。“霊”とは聖霊を意味します。聖霊なる神が19節後半から20節にある言葉を語りかけられました。ここから分かることがあります。訪ねてきた三人は、ペトロにとって一緒にいることをためらう人々だということです。彼らは明らかに異邦人でした。しかも三人のうちの一人は、ローマ帝国の兵士です。ローマ帝国の兵士が主イエスに従うペトロを捕らえる理由は、十二分にあります。ペトロがローマ兵と会うということは、本来なら大変緊迫した状況です。しかし聖霊は、ペトロが三人に会う前にあらかじめ語られました。「ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」と。この言葉があったからこそペトロは、三人を迎え入れることができたのです。「ためらわないで」とは、判断する、差別する、という意味の言葉です。神は、「わたしが彼らをよこしたのだから、あなた自身の考えで判断したり差別したりするな」とペトロにあらかじめお伝えになられたのです。神はさらに「彼らと一緒に出発しなさい」とペトロに命じておられます。出発する、という言葉は、「歩む」という言葉に対応します。ですからここでペトロに命じられているのは、訪ねてきた彼らと歩みを共にせよ、ということです。人間的な交わりを持つことが、命じられています。ですから23節でペトロが三人を迎え入れて泊まらせたことは、すでに彼がその三人と歩みを共にし始めたことを示しています。繰り返しになりますが、神が彼らを遣わされたことが示されていたので、ペトロは彼らを迎え入れることができたのです。ペトロは、訪ねてきた三人の人の背後に神の御業を見ているのです。

 ここで視点を変えてみましょう。コルネリウスに遣わされた三人は、ペトロをどう見たのでしょうか。天使がコルネリウスに告げたとおり、彼らはヤッファで皮なめし職人のシモンの家を見つけました。そして、これまた天使が告げたとおり、そこにペトロと呼ばれるシモンがいました。こうして会えたペトロに、彼らは22節で経緯を説明しています。彼らはこの説明をペトロにしながら、聖なる天使から告げられた言葉が真実であったことを思ったでありましょう。天使の告げたとおりペトロと出会うことによって、彼らはペトロの背後にある神の御業を見たはずです。

 今日の出来事は、「コルネリウスが遣わした三人の人と、使徒ぺトロが出会う場面」だ、と冒頭に申しました。見た目上は、そうでしょう。しかしそれ以上に、ペトロも、また三人の人も、それぞれに神の御業に出会っています。さらに言うならば、この出来事によって彼らは神に出会っているのです。わたしたちの信仰生活においても、しばしば同じような神との出会いがあるのです。わたしは約二年前にこの浜松教会に赴任しました。このときに表面上起こったのは、新人牧師が一つの教会に赴任する、というだけの出来事です。しかしそのとき、この背後におられる神の導きを皆さん誰もが覚えられたのではないでしょうか。わたしの側でも同じなのです。わたしもこの教会に赴任して、皆さんに出会いました。そしてここで出会ったお一人お一人の背後に神がおられることを、わたしは思わずにはいられないのです。

 教会におけるあらゆる交わりにおいて、同じことが起こります。誰かからかけられた言葉ですとか、自らにしてもらった配慮から、その背後におられる神と出会う。それが教会なのです。そして神との出会いの中心的な場が、御言葉に聞く礼拝なのです。礼拝で表面上起こることは、人が集まって聖書の言葉を聞いて、牧師が説教を語り、賛美し、献金をするといったことです。今は、もはや人が集まることすらでない状況です。しかしそのような状況にあってもわたしたちは、この礼拝をとおして神に出会っています。そのことを、このようなときだからこそ、深く覚えていただきたいのです。

 

 では、礼拝においてわたしたちに出会ってくださった神は、わたしたちに何をお命じになるのでしょうか。「ためらわないで一緒に出発せよ」という言葉に尽きるでありましょう。神に出会ったものどうし共に歩みだせ。これこそ、共に礼拝をささげるわたしたちに命じられていることです。たとえ直接会うことはできなくとも、たとえ場所は違っていたとしても、この礼拝をとおしてわたしたちは唯一の同じ神に出会っています。こうしてわたしたちは、互いに受け入れ合い、共に歩みだすのです。神の御業によって、わたしたちはこの礼拝を共にしています。だからこそわたしたちは、ためらうことなく、共に歩んでいこうではありませんか。