2020年4月5日受難週主日礼拝説教「主イエスの血の責任」

 

聖書箇所:マタイによる福音書27章15~26節

主イエスの血の責任

 

 本日は受難週主日礼拝です。主イエスの十字架の苦難を覚えるときです。それは身代わりの死でありました。主イエスは死すべき責任を、わたしたちの代わりに負われたのです。では主イエスがわたしたちの身代わり背負われた責任とは、何だったのでしょうか。今日の箇所から学びたいのです。今日は登場人物一人一人に焦点を当ててお話していきます。

 まず祭司長たちと長老たち。彼らは、宗教指導者でした。それにもかかわらず、彼らは聖書に示されたメシア、救い主である主イエスキリストを殺すために中心的な役割を果たしました。ただ、主イエスが十字架に架けられるか否かを決める裁判において、彼らは中心的な役割を担っていません。群衆を説得し、彼らが主イエスを十字架にかけることを主張するように仕向けたわけです。自分たちの計画を実行するために彼らが頼ったのは、神ではなく群衆でした。群衆たちの責任において、自分たちの望みを実現しようとしました。これが祭司長たちと長老たちの姿です。

 次に総督ピラトとその妻を見てまいりましょう。ピラトは、この裁判において裁判官の役割を担っています。彼は主イエスを釈放しようとしました。ピラトの妻も、同じことを望みました。それは彼らが主イエスを救い主と信じていたからではありません。主イエスと関わりたくなかったからです。19節でピラトの妻が「関わらないでください」と言い、24節でピラトが「私には責任がない」と言っていることから明らかです。主イエスに対して何の関わりも責任も持ちたくない。これがピラトと妻の一貫した態度でありました。主イエスと関わりたくない総督ピラトが引き合いに出したのが、バラバ・イエスでありました。バラバという名前は、父の子供という意味です。彼は評判の囚人でした。ピラトは、バラバと主イエスどちらかの選択を迫れば、群衆は主イエスの釈放を選択すると考えたのです。しかしこの目論見は外れることになります。ところで、バラバと主イエスは同じイエスという名前でした。それゆえに17節でピラトが群衆に迫った選択の意味が非常に明確に語られることになります。バラバ・イエス、すなわち父の子供であるただの人間に過ぎないイエスを望むのか、それともメシア、すなわち神が遣わされた救い主であるイエスを望むのか。この選択が、群衆に対してピラトから迫られています。そして聖書を読むすべての人もまた、同じことが問われているのです。

 さて、ピラトからこのような重大な選択を迫られた「群衆」について見てまいりましょう。彼らが選んだのは、バラバ・イエスでした。彼らが祭司長たちや長老たちに説得されていたからです。しかし彼らの説得に群衆が応じたのには、理由があるのです。バラバは評判の囚人でした。他の福音書を合わせて見ますと、彼は暴動のときに人を殺したことが分かります。強盗とも言われています。一見極悪人のような印象を受けます。しかし彼が起こした暴動は、ローマ帝国の支配に反抗するためだったようです。群衆はローマ帝国の支配に不満を持っていました。そんな彼らにとってバラバは、自分たちの望みを力によって叶えてくれる人でした。それが群衆が求めたバラバです。彼を求めるために、主イエスを十字架につけるように群衆は激しく叫び続けました。ただし彼らは、最初から主イエスを受け入れなかったわけではありません。21章で群衆は、エルサレムに入城される主イエスに向かって「ダビデの子にホザナ」と言っています(21:9)。ダビデの子という呼び名は、メシアすなわち救い主と同義です。このとき群衆は、主イエスを救い主と理解していました。しかし彼らは主イエスがエルサレムで御言葉を語られる中で気づいたのです。主イエスは自分たちの望みを叶えてくれる救い主ではない、と。すると、自分たちの望みを力で叶えてくれそうなバラバが登場します。彼らはバラバに乗り換えました。そして叫ぶのです。自分たちの望みを叶えてくれない主イエスなど十字架につけろ。その血の責任は、我々と子孫にある。あたかも民が積極的に責任を負おうとしているように聞こえます。しかし、もしこれが群衆ではなく一人だったら同じことが言えたでしょうか。わたしにはそうは思えません。自分ではなく、我々の中の誰かが、子孫の誰かが、責任を取ってくれる。そんな責任回避の思いが、「その血の責任は、我々と子孫にある」という発言に表れているのです。

 

 ここまで祭司長たちと長老たち、ピラトとその妻、群衆をそれぞれに見てまいりました。共通点があります。誰も自分個人で責任を取ろうとしないことです。しかし、自分の望みはかなえようとします。誰かのせいにして、自分では一切責任をとることなく、自分の望みを叶えようとする。それが、主イエスを十字架につける人々の姿です。今を生きる人々も、同じではないでしょうか。自分では責任は負いたくない。でも自分の望むことは実現したい。自分の責任ではない人々が苦しんでいても関係ない。これこそ、無責任に主イエスを十字架につける、すべての人間の姿です。神は、この責任を問われます。無責任であることは許されません。しかし同時に神は、わたしたちに問われるべき責任を自ら負ってくださるお方でもあるのです。それが主イエスの担われた十字架なのです。こうして救われたわたしたちが、神に対して無責任であり続けることはできないでしょう。それゆえに虐げられた人の命を大切にする神の御心を、わたしたち自らの責任で(言い換えれば、自らの意志と自らの選択で)行おうではありませんか。まず神御自身が、十字架においてわたしたちの責任を負ってくださいました。だからこそわたしたちは、この困難なときにおいても怯えることなく、ひるむことなく、神から与えられた責任を担うことができるのです。