2020年3月29日礼拝説教「主の言葉に従う旅」

 

聖書箇所:創世記12章1~9節

主の言葉に従う旅

 

 創世記の12章からはアブラムの話がはじまります。のちのアブラハムと呼ばれる人です。アブラムについては、11:27以降からいくつかのことを読み取ることができます。父親はテラで、妻はサライでした。サライは不妊の女であり、夫婦には子供が与えられていませんでした。この当時、子供が与えられないことは現代以上に困難を伴うことでした。アブラム夫婦は大きな悩みと痛みを負っていたことが読み取れます。そのようななか父親のテラは、家族をつれてウルを出発してハランに留まり、そこで生涯を終えました。ハランは、カナンから見て北に位置します。

 主がアブラムに語りかけられたのは、彼がハランにいたときであったと考えられます。主の御命令は、単純明快です。「わたしが示す地に行きなさい」。ただしこれは、従うことに犠牲を伴う命令でありました。主の御命令に従うためには、生まれ故郷と父の家を離れなければなりません。正確に言いますと、アブラムの生まれ故郷はハランではなくウルです。しかしおそらく彼にとってはハランの方が生まれ故郷のような慣れ親しんだ土地だったのでしょう。アブラムはそこで父の家において、ある一定の安定を得ていました。同時にアブラム夫婦はすでに年をとっていて、自分たちの子供は望めない状況にあります。アブラムは安定した生活の中にありつつ、大きな諦めと共に過ごしていました。

 そのような彼に主は、今の安定した生活から離れて、わたしに従う歩みを始めよと語りかけられました。この主の御命令には、2、3節で示される主の約束が伴っています。この中には、子供がいないアブラム夫婦の諦めを主が満たしてくださる希望が示され、また神の祝福が約束されています。ただし、それがどのように実現するかはこの時点ではまだ示されていません。しかしそれでも主が約束してくださったことを、彼は信じたのです。これは言い換えれば、主の祝福に彼は期待したのです。それゆえに彼は、主の言葉に従って旅立ちました。

 4節の後半からは、アブラムの旅が詳細に語られていきます。それは、退路を断った旅立ちでした。アブラムは七十五歳ですから、おそらくもう慣れ親しんだハランに生きて帰ってくることはできません。しかも妻も財産もすべて携えて、彼は旅立ちました。神が与えてくださる約束と祝福に、彼は人生のすべてをかけたのです。この後、アブラムがたどった旅の道のりが記されてまいります。シケム、ベテル、ネゲブ。これらはすべてカナン地方の地名です。シケムはカナン地方の中心地から見ると北に当たります。ベテルがほぼ中央、そしてネゲブ地方とはカナンの南部を指します。アブラムが出発したハランがカナン地方の北にありましたから、北から南へカナン地方の全土を巡ったのす。その過程で、アブラムは「あなたの子孫にこの土地を与える」という新たな約束を神から与えられます。子供のいないアブラムに、「あなたの子孫」に対する希望の約束が与えられます。その子孫に与えられる"土地"とは、"国"とも訳すことができる言葉です。土地の約束は、すなわち国が与えられる約束でもあるのです。アブラムの旅は、神の言葉に従って自分の慣れ親しんだ国から出ることによって始まりました。そのような彼に神は、新たな国を子孫に約束してくださったのです。

 このようにアブラムは、主の言葉に従って旅をすることでいくつかの大切な約束をいただきました。ただそれは約束であって、この時点では実現していません。したがってアブラムの旅は、神が与えてくださった約束に希望をおく旅でした。彼をこの旅へ突き動かした神の約束は、アブラム夫妻の子孫繁栄の希望だけにはとどまりません。アブラムに与えられた神の約束をもう一度振り返ってみましょう。アブラムを大いなる国民にし、祝福し、名を高め、また祝福の源となると約束されています(2節)。さらに、あなたの子孫にこの土地を与えると約束されます(7節)。これらの約束はすべて、王の誕生に関連するものです。アブラムは、自分の子孫から王が誕生する約束を神からいただいたのです。これこそ神の約束をとおしてアブラムが仰ぎ見た希望です。そして事実彼の子孫からダビデ王が生まれ、その約千年後に真の王なる主イエスキリストがお生まれになるのです。

 このような神の壮大な約束を望みながら旅をしたアブラム自身にも、神の祝福が与えられていきます。祝福とは、その人自身がよき状態にされることです。その大前提は、祝福の源が神のみだということです。それゆえに聖書の語る一番の祝福は、神が共に歩んでくださることなのです。今日の箇所ではアブラムが祝福の源となると言われています。それは祝福の源なる神がアブラムと共に歩んでくださるという、この上ない祝福の約束です。この祝福こそ、アブラムを主の言葉に従う旅へと動かしたのです。

 この祝福が、わたしたちは主イエスをとおして約束されています。主イエスの別名は「インマヌエル(神は我らと共におられる)」(マタイ1:23)です。主イエスにあるこの約束に望みをおいて、わたしたちはそれまでの安定と諦めの生活を置いて、神の言葉に従う旅を始めました。そしてまたわたしたちは毎主日に神の言葉を聞くことをとおして、週ごとに神の言葉に従う旅を新たに始めるのです。その旅において、祝福の源である神が共にいてくださるという一番の祝福が与えられるのです。

 

 わたしたちは今、日に日に増す危機の中に置かれています。わたしたちはある種強制的に、慣れ親しんだ歩みから離れざるを得なくなっています。だからこそ今日改めて、御言葉に従う旅を始めようではありませんか。主が共に歩んでくださる祝福の中を、歩んでいこうではありませんか。