2020年3月8日礼拝説教「弱さと共に生きる人の幸い」

 

聖書箇所:使徒言行録9章36~43節

弱さと共に生きる人の幸い

 

 今日の舞台であるヤッファは、一つ前の物語の舞台であるリダから北西に約19キロほど離れた地中海の沿岸にありました。旧約聖書には、船によって運ばれた物資がヤッファの港からエルサレムに運ばれたことや、ヤッファから船出した記事が記されています。このようにヤッファは古くから栄えた重要な町でした。ここにも主を信じる者が起こされていたようです。そのなかでもタビタという人のことが取り上げられています。タビタは、ギリシア語ではドルカスと言います。日本語では「かもしか」という名前です。当時の一般的な女性の名前だったようです。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていました。10章で登場するコルネリウスも、多くの施しをしていたとあります(10;2)。施しが、その人の信仰を示す一つの表現であったのでしょう。ドルカスの善い業や施しは、決してうわべだけの行動ではありませんでした。それは周囲の人々の様子から見ることができます。彼女が死にますと、彼女の遺体の周りには嘆き悲しむ人々が絶えることがありませんでした。人々は彼女の遺体を清めて、階上の部屋に安置しました。そしてパウロがリダにいると聞いた弟子たちが、二人の人を遣わしてペトロを呼び寄せたのでした。列王記上17章では、女主人の息子が死んだ際、エリアがその遺体を階上の部屋に運び、そこで生き返らせるという記事があります。旧約聖書のこの出来事を踏まえて、御言葉を語る使徒ベトロを呼び寄せたのかもしれません。彼らは使徒ペトロという人を求めたのではありません。ペトロの語る御言葉を求めたのです。

 ここからまず言えることは、主イエスの復活を信じる者であっても、死は悲しみであるということです。まれに信者の方で、自分は死んだら主の御許に行くのだから、悲しまず喜んでほしいという方がいらっしゃいます。わたしは非聖書的だと思います。死は信者にとっても悲しみです。たとえ信仰者であっても、死は恐怖です。今日の箇所でも、ドルカスの死に直面した信仰者の悲しみたちが描かれています。この人々にとっての唯一の希望は、ペトロの語る御言葉でありました。ペトロが到着しますと、やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せました。やもめたちは、弱者の代表格でありました。おそらく彼女たちが経済的に困窮し、着るものにも困る状況だった。そこでドルカスが下着や上着を作ってあげたのでしょう。ここで悲しんでいるやもめたちとは、大変な弱さのなかで倒れているときにドルカスによって起き上がらせてもらった人々なのです。そのような人々が、ドルカスの死に際して御言葉を求め、御言葉を語る使徒ペトロを呼び寄せたのです。

 40節でペトロは行動を起こします。皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって「タビタ、起きなさい」と言いました。主イエスがヤイロの娘を生き返らせたお話と共通点があります(ルカ8章および、その平行記事)。ここでペトロがなしているのは、ペトロの行動でありながら、主イエスの御業なのです。直前の箇所でペトロは、「イエス・キリストがいやしてくださる」という言葉で、主イエスの御業を示しました。今日の箇所では行動によって、主イエスの御業を示したのです。復活の主イエスの御業によって、ドルカスは起き上がらせられたのです。主イエスを信じる者に与えられた希望、死を超えた復活の希望がここに示されています。

 ところで復活は、誰にとっても喜びなのではありません。現実に、自死する方がいるからです。たとえ復活しても、周りの人々から「いない方がよかったのに」としか言われないのならば、それは喜びでもなんでもありません。自分の復活を喜んでくれる人々が大切です。この人々は、裏を返せば、自分の死を悲しんでくれる人々です。このような人々がいるからこそ、復活は希望なのです。ドルカスにとってそれは聖なる者たちとやもめたちでした。生き返ったタビタ、すなわちドルカスを心待ちにしてくれる聖なる者たちとやもめたちが、そこにはいたのです。だからこそ、主イエスの御業による彼女の復活は希望であり喜びなのです。この人たちは、生前のドルカスが弱さを共にし、立ち上がらせた人々です。弱さを共にし、御言葉に従ってお互いに立ち上がらせあう。この交わりの中で、主イエスにある復活が、希望であり喜びとなるのです。いくら多くのお金を使って豪華な葬儀をし、多くの人々が集まったとしても、お付き合いで来ている人ばかりで、誰も心では悲しんでいないのならばどうでしょう、復活の希望は示されないのです。しかし本当に悲しむ人がそこにいて、そこにいる人々が御言葉に寄り頼んでいるならば、復活の希望と喜びが、そこに鮮やかに示されるのです。悲しむ人々と御言葉のどちらが欠けても、復活の希望は示されません。悲しむ人々と御言葉の両方がそろうときに、真の希望が示されるのです。

 

 今日の御言葉においても、前回の箇所と同様に多くの人が主を信じたことが記されています。人々は、復活したタビタと、それを喜ぶ兄弟姉妹たちを見て、御言葉に示された主イエスの希望、死を超える希望を目の当たりにしたはずです。この姿を見て、多くの人が主を信じたのです。復活したドルカスと、それを喜ぶ聖なる者たちとやもめたち。この人たちは、御言葉に聞きながら弱さを担い合い、互いに立ち上がらせ合う関係の中で生きてきました。わたしたちも互いにそのような関係で結ばれる教会であり続けたいと願っています。礼拝をすることすらも困難な時だからこそ、教会がこのような交わりの場所であることを思い起こしたいのです。御言葉に希望を置き、誰かが倒れたら立ち上がらせあう関係。この関係の内に、死で終わらない主イエスキリストの復活の希望が鮮やかに示されるのです。