2020年3月1日礼拝説教「キリストがいやしてくださる」

 

聖書箇所:使徒言行録9章32~35節

キリストがいやしてくださる

 

 新型コロナウイルスの流行が、多くの人々を苦しめています。しかしキリストに頼れば病気にかかっても大丈夫・・という薄っぺらい話をしたいのではありません。聖書の中のいやしの記事は、決してそれ単独で描かれることはありません。主イエスによってもたらされた神の国の到来が告げられ、そのしるしとしていやしの奇跡がなされます。ですから大切なことは、いやしそのものよりも、御言葉に基づいて神の国が来たということです。今日の箇所においても、この流れの中でいやしの記事が記されています。使徒ペトロが方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下っていきました。ペトロが方々を巡り歩いていたのは、宣教のためでありましょう。聖なる者たちのところにも行ったわけですから、未信者への伝道だけでなく、すでに建てられた教会に出向いて説教もしていたと考えられます。そんな彼がリダにたどり着きました。この町の場所は、エルサレムからヤッファに向かう途中に位置しています。この位置関係は、物語の流れに関連しています。ここまでですでにエルサレム周辺にいたユダヤ教を信じていた人々に福音が広がりました。そして今度はヤッファからペトロが招かれて、異邦人たちに福音が広がて行く。その間をつなぐのがリダでのいやしの物語なのです。

 さて、このリダの町にはアイネアという人がいました。八年間もの長い期間、中風で床についていました。この人も主イエスを信じる聖なる者の一人であったでしょう。彼は誰かのお世話にならなければ、生きていくことができませんでした。自分は人の手をわずらわさなければ、生きていけない。そんな痛みのなかで、彼は歩んでいました。そんなアイネアにペトロが出会いました。そしてペトロは34節の言葉をアイネアに語りました。するとアイネアはすぐ起き上がりました。イエス・キリストがいやしてくださる。特徴的な表現です。ペトロは3章でも、同じように立てなかった人を立たせています。そのときの言葉は、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい(3:6)」でした。この主イエスの名は、唱えれば力を持つような呪文ではありません。イエスの名を呼ぶとは、主イエス御自身が働かれていることのしるしなのです。ここで主イエスは、いやし主として働いておられます。旧約聖書おいて神は、御自身をいやし主として示されます(出エジプト記15章26節など)。イエス・キリストこそ、旧約聖書において御自身をいやし主として示された神である。そんなメッセージが、この箇所に込められています。

 いやし主なる神であるイエス・キリストの御業として、ペトロはアイネアに「起きなさい。自分で床を整えなさい。」と命じました。「起きる」とは、「立ち上がる」という言葉であり、復活を示す言葉でもあります。死から立ち上がったお方の力によって、立ち上がれ。そしてこれからは自分で床を整えよ。ペトロがこう命じますと、アイネアはすぐに立ち上がりました。大切なのはこの後です。それを見たリダとシャロンに住む人は皆、主に立ち帰ったのです。彼らはそれまでの歩みを変えたのです。奇跡を見ただけでは、立ち帰りは起こりません。ペトロの告げ知らせた御言葉を聞き、その御言葉が指し示す主イエスの御業として、アイネアがいやされたのです。だからこそ、皆が主に立ち帰ったのです。この出来事に導かれて、この後の物語で異邦人たちが主に立ち帰っていくことになります。

 御言葉を指し示す主イエスのいやし。これが、人々が主に立ち帰る原動力となりました。それが他でもないイエス・キリストのいやしであることを覚えたいのです。主イエスは人々の痛みや重荷を御自身も共に担われることによって、人々をいやされました。決して、神であるご自身の立派さや、人の目を引くような素晴らしい能力によっていやされたのではありません。痛みを共に負い、苦しみを共に負い、最後に十字架において人々の罪を負うことで、主イエスは人々をいやされました。共に担う主イエスのいやしによりアイネアは起き上がりました。これはアイネアだけではありません。わたしたちを含め、主イエスに救われた誰もが、アイネアと同じように主イエスに担われていやされた者なのです。

 ところで、ここでいやされたアイネアはこの後どのような歩みをしたのでしょうか。聖書に記載されていませんので、想像するしかありません。けれどもおそらくは、今度はアイネア自身が、それまで自分が抱えていた重荷に苦しむ人々の痛みを共に担う者になったであろうと思います。まさにそのようにして、人々に主イエスのいやしの働きが広がっていったのでありましょう。アイネアのように自らに痛みを負った者こそが、主イエスのいやしを示す者となるのです。思えばペトロもそうなのです。彼は決して模範的な弟子ではありませんでした。主イエスを三度も知らないといい、彼は信仰的には完全に倒れたのです。彼自身大きな痛みを負ったのです。そんな彼が、主イエスによって赦されて、そして信仰的に起こされました。そして、主イエスのいやしをアイネアに示したのです。痛みを知っているものこそ、本当の意味で人を立ち上がらせる主イエスのいやしを示すことができるのです。このことが、ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩、病者の祈り と呼ばれる詩によく現れています。

 今は、苦難のときです。多くの人々の叫び声があがっています。そのようなときだからこそ、共に重荷を担われたキリストのいやしを示す者として、歩みをなしてまいりましょう。