2020年2月16日礼拝説教「敵が仲間に加わるとき」

 

 

聖書箇所:使徒言行録9章26~31節

敵が仲間に加わるとき

 

 サウロが主イエスと出会い、大きく生き方を変えられた物語の最後の部分となります。このことは、周りの人々との関わりのなかで起こりました。サウロのところに遣わされたアナニア、ダマスコにおいて命を狙われたサウロを助けた弟子たち、そして今日の箇所ではバルナバが重要な役割を担っています。この関わりのなかで、今日の物語を見てまいりたいのです。

 ダマスコを去ったサウロがエルサレムに着きました。エルサレムに戻ってきたと言ったほうが正しいでしょう。もともと彼はキリスト者を迫害するためにエルサレムからダマスコへ出発していきました。そんな彼が、キリスト者となってエルサレムに戻ってきました。彼がエルサレムに戻った理由は、弟子の仲間に加わるためでした。サウロは、自身の宣教の働きが、弟子たちとの交わりのなかで行われるべきものだと理解していました。彼は教会の交わりを大変重んじていました。それゆえにエルサレムに戻り、そこで弟子たちの仲間に加わろうとしたのです。しかしサウロを見た人々は皆、彼を弟子だとは信じないで恐れました。サウロを恐れた人々の気持ちはよく分かります。サウロ自身、弟子の仲間に加わろうとしたときにこのような反発をうけることは、エルサレムに行く前から分かっていたでしょう。それほどまでにサウロに起こった変化が劇的なものだからです。しかしそれでもなお、弟子たちの仲間に加わろうとしたところに、どれほどサウロが教会に加わることを重視していたかがよく現れています。

 さて、このような状況のなかでバルナバが登場いたします。彼は4:36~37において、すでに登場しています。彼は自らの畑を売って、その代金を使徒たちの足元においた人の例として挙げられています。彼はレビ人でしたから、人々を教える立場でもあったと思われます。教える面でも、献金の面でも、懸命に教会に仕える人でした。それほどまでに彼は教会を大切にしていました。そんな彼が、使徒たちとサウロの仲介役を担いました。サウルを連れて使徒たちのところに案内し、サウロが旅の途中で主に出会ったこと、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教したことを説明しました。サウロ自身ではなくアナニアが説明したからこそ、サウロはエルサレムで受け入れられました。こうしてサウロは、エルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになりました。「恐れず教える」と訳されている言葉は、直前の「大胆に宣教した」と同じ言葉です。つまりサウロは、ダマスコで行っていた宣教の働きをエルサレムでも行なったのです。バルナバが使徒たちとサウロとの間を仲介したことによって、サウロは宣教の働きをエルサレムでも続けることができるようになりました。こうしてダマスコと同じようにエルサレムでもまた、彼は命を狙われることになりました。それを知った兄弟たちが、彼を連れてカイサリアに下り、タルソスへ出発させました。

 31節には、このことが起こった後の教会の様子が記されています。もともとはステファノの殉教に伴う教会の大迫害という平和とは程とおい状況のなかで、信者がエルサレムから近隣の地域に散って行くこととなりました。その結果これらの地域に福音が伝わり、各地に教会が建てられました。そのなかで、教会の迫害者であったサウロが主イエスに従う者となるという驚くべき出来事が起こりました。バルナバの仲介によって、教会は彼を受け入れました。これら一つ一つのできごとをとおして、近隣の地域の教会で平和が保たれました。教会は主を畏れ、聖霊の慰めを受けていました。その結果、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていきました。これらのことが実現するために、バルナバの仲介者としての働きが大いに用いられたことが今日の箇所に記されています。思えばバルナバが仲介役として役割を担うことができたのは、彼が教会のために一生懸命仕え、教会の交わりを大切にする人だったからです。そんな彼の働きを、教会の人々も使徒たちも見て、彼を認めていました。このことが結果的に、サウロを教会の交わりに迎えるために用いられました。サウロは人間的に見れば教会の敵です。とても平和に迎えることはできません。しかしそんなサウロを平和のうちに教会に迎えることができ、その後の教会が平和を保つことができたのは、仲介役のバルナバが教会を大切にしていた人だったためです。教会を大切にする。内向きの働きのようにも見えるのですが、実は外から人を迎え入れる伝道の働きのために大いに用いられるのです。バルナバのように、心から教会を大切にしている人による伝道ならば、教会は敵をも受け入れることができるのです。そのような教会において平和が保たれ、人々が集められていくのです。このように考えますと、サウロがなぜ弟子たちの仲間に加わろうと一生懸命だったかもよく分かるのです。教会の交わりのなかでしか、教会を立てあげる働きはできないのです。

 

 福音宣教はわたしたちに課せられた使命です。また浜松教会はディアコニアという人々に仕える愛の働きにも力を入れてきました。これらはいわば外向けの活動です。この活動を行うときにわたしたちが問われるのは、すでにここに集められた兄弟姉妹を本当に大切にしているか、この教会を自分は本当に大切にしているか、ということなのです。わたしたちが互いに愛し合い、教会がキリストの愛に満たされているからこそ、その愛を外に向けて示すことができるのです。結局のところ、ここでわたしたちが互いに注ぐキリストの愛以上の愛を、わたしたちは外の人々に向かって注ぐことはできないのです。教会を愛し、兄弟姉妹を愛することによってはじめてわたしたちは、キリストの愛を人々に伝える者とされるのです。