2020年1月26日礼拝説教「神の招きと御言葉によって立つ」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙二2章13~17節

神の招きと御言葉によって立つ

 

 本日は年間標語聖句の御言葉に聞きます。浜松教会には、教会設立と会堂建築という課題があります。これらはどちらも大きく括ると教会を立てあげる働きです。教会の実態は信徒の集まりですから、教会を立てあげるためにはここに集うわたしたち一人一人が立つことが重要です。今日の箇所でパウロもしっかり立つようにと命じています。この御言葉によって、わたしたち一人一人が立つことに導かれたいと願っています。

 さてパウロが手紙を送っているテサロニケ教会は、迫害と苦難に耐える教会でした(1:4)。迫害と苦難をもたらす者たちがおり、それに耐えるテサロニケ教会があります。2:1~12で記されている不法の者は、前者の人々が意識されているでありましょう。このような人々は力を持っていますが、最後には主イエスによって裁かれるのです。それとは反対に、迫害と苦難に耐えているテサロニケ教会の人々のことをパウロは神に感謝しています。耐えるという行動をとおして、神がテサロニケ教会の人々をお選びになっていることが示されているからです。この行動は、テサロニケ教会の人々自身の意志によるものです。しかしこのような信仰に基づく意思は、“霊”の力、すなわち神の御業によってしか出てきません。神が彼らを救いに選んでくださっていることが、彼らの行動によって明らかになっているのです。

 この神の選びを踏まえてパウロたちがかつてテサロニケに福音を伝えたことを振り返ると、それが神に選ばれたテサロニケ教会の人々を神が招くために用いられたことが分かります。テサロニケの町には、パウロから福音を聞きながらも、このとき教会を迫害する人々もいたでしょう。そのなかで、テサロニケ教会の人々は迫害と困難に耐える道を選びました。迫害と苦難は避けたいと思うのが自然です。しかしそれとは異なる行動を、テサロニケ教会の人々は意志をもって選んだのです。この彼らの意志に、神の選びと招きが現れています。この選びと招きが永遠に変わることのない神によるものであるからこそ、それらは信頼できるのです。これこそ信仰者が歩む上でまず立つべき土台です。自分が神を信じた、自分が神に仕えた、という自らの行動を信仰生活の土台にしますと、信仰は必ず揺らぎます。神の選びと招きを土台にしてこそ、苦難を前にしても揺らがないのです。

 では選びと招きという神の行為が信仰生活の土台であるならば、わたしたちの行為は必要ないのでしょうか。パウロはそうは言いません。神に選ばれ招かれたからこそ、しっかり立て、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けよ、とパウロは命じるのです。それらを実行するには意志が必要です。周りの状況に流されているだけでは、立つことも教えを固く守ることもできません。テサロニケ教会が置かれていた迫害と苦難の状況を踏まえれば、特にそうです。これらは自然な行動ではないのです。語弊を恐れずに言うならば、不自然な行動なのです。自然な行動ならば、命じられなくても皆が実行します。不自然な行動でも意志を持って神に従うからこそ、その行動をとおして神が彼らを選んでくださっていることが示されるのです。

 ところで教会を迫害していた不法の者、すなわち神の選びのなかにはない人々とはどのような人々でしょうか。9節を見ますと、彼らも人々を引き付ける力を持っていたようです。では、神に召された者たちには力はないのでしょうか。そんなことはありません。御言葉には力があります。その最たるものは、キリストの再臨の約束でしょう。キリストが再び来られたならば、世界は完成しあらゆる問題は解決します。この神の力は魅力的です。しかし神の力ばかりに目を向けていたら、御言葉に生きることが抜け落ちるのです(3:6以降参照)。意志を持たなければ、信仰生活が怠惰な生活に流れてしまうのも、自然なことです。神の力ばかりを強調すると、それに頼り切ってしまうのです。しかし不法な者と神に選ばれた者を区別するのは、力ではありません。力は不法な者も持っているからです。結局両者を分けるのは、御言葉に生きるかどうかです。だからこそしっかり立ち、御言葉を固く守り続けよと、パウロは命じるのです。これは、意志をもってしなければできない不自然な行動です。思えば主イエスの行動こそ、不自然な行動の最たる例です。誰が神でありながら人になろうと考えるでしょうか。しかも十字架にかかられるために。しかし主イエスは、わたしたちを罪から救うという確固たる意思を持って、人となられるという不自然な行動をしたのです。神の選びとは、神の確固たる御意志です。この御意志によって救われたのならば、救われた人々が意志を持って神に応答することが当然でありましょう。

 

 わたしたちもパウロが命じたように、しっかり立って、聖書や説教によって伝えられた教えを固く守り続けてまいりましょう。繰り返しになりますが、これをするには意志が必要です。自らの自然な思いとは違う歩みへと舵を切らなければなりません。自分がしたいことよりも、御言葉に従うことを優先するのです。これは、ある居心地の悪さを生じる行為です。しかしこの居心地の悪さを、大切にしていただきたいのです。教会は神の恵みに満ちた場所ですから、基本的には居心地のいい場所であるはずです。しかし居心地の良さのなかにただ座り込んでいるだけでは、教会は立ちません。居心地の良さから立ちあがり、御言葉に従って一歩踏み出すことが必要です。それまで居心地の良さのなかでなんとなく続けてきた歩みを、意志をもって、御言葉に従う方向に変えてまいりましょう。これこそ「しっかり立て」とパウロが命じたことの根本にある思いです。ぜひともこの一年、御言葉にしたがうための意志を持った不自然な行動を、積み重ねてまいりましょう。それによって、教会も、わたしたち一人一人も、立つことになるのです。