聖書箇所:使徒言行録9章1~9節
迫害する者を招かれるイエス
本日登場しますサウロは、後にパウロと名前を変えて、神の御前に非常に大きな働きをなした人物です。彼は、ステファノの殉教の記事ですでに登場しています(7:54以下)。ステファノを殺すために、彼は重要な役割を果たしました。その後彼は、先頭に立って教会を迫害しています。その生き方が、今日の箇所でも続いています。彼はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいます。そのためにエルサレムから250キロ弱も離れたダマスコの町まで、わざわざ出かけていきます。そこにいる者をエルサレムに連行することができるよう、大祭司に手紙まで求めています。彼がこれほどまでに迫害に熱心だったのは、彼が不信仰だったからではありません。全く逆で、彼が神に従うことに熱心であったからです。しかも彼が信じていたのは、異教の神ではなく、旧約聖書に示された真の神です。主イエスはこの真の神に敵対する異端者であると理解し、サウロは執拗に迫害したのです。
神に仕える者が、神に逆らう者を滅ぼす。こういった物語が、旧約聖書にはあります(列王記上18章等)。それだけでなく旧約と新約の間の時代に記された旧約聖書続編に、このような物語が武勇伝として記されています(1マカバイ2;23以下のマタティア)。サウロは、このような神に従う偉人に自らを重ねて行動していました。サウロは男女問わずエルサレムへ連行しようとしていました。連行するとは、導くことを意味する言葉です。彼は人々を真の神へと導こうとしていました。教えから外れてしまった人々を真の神のもとに回心させるために、彼は人生をかけていたのです。そんなサウロが、5節以降主イエスと出会います。サウロがダマスコに近づいたとき、天からの光が辺りを照らしました。もはや立っていることができませんでした。そして彼は呼びかける声を聞きます。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」。サウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と聞きますと、答えがありました。「私は、あなたが迫害しているイエスである。」。神はサウロを、「サウル」というサウロのヘブライ語名で呼びかけています(26:14も参照)。ヘブライ語で呼びかけられる神は、明らかにヘブライ語で記されている旧約聖書に示された神です。それは、サウロ自身が人生をかけて従ってきた神でした。サウロが主イエスを迫害したのは、この神に従うためです。しかしその神が、サウロにお答えになるのです。「私は、あなたが迫害しているイエスである」と。このときのサウロの衝撃を、想像できるでしょうか。サウロはそれまで、自分が人生をかけて神に仕えてきたつもりだったのです。しかしその行動は、実は自分が寄り頼んでいた神を迫害する行為であったのです。このことが明らかとなり、彼は目が見えなくなりました。実際に目が見えなかったこともあるでしょうが、何よりも彼は進むべき道を見失ったのです。明らかになった事実からすれば、当然です。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行きました。それまでのサウロは、人々を回心へと導くために意気込んで行動していました。そんな彼が、人々に導かれなければ近くの町にもたどり着くことができない者とされたのです。彼は三日間、目も見えず、食べも飲みもしませんでした。
サウロの置かれた状況を、旧約聖書にあります律法の観点からも見てみましょう。彼は迫害をとおして主イエスをなきものにしようとしました。彼自身が、主イエスを十字架にかけたも同然です。この主イエスが、実は真の神であったことが明らかとなりました。真の神は当然罪などありません。彼は罪なき者の血を流したのです。そのような者は、旧約聖書の律法によれば憐みをうけることなく殺されなければなりません(申命記19:11以下)。彼は旧約聖書の律法を守ることによって神に仕えてきました。律法を守ることを、自らの存在価値として生きてきました。しかし自らの存在価値であるはずの律法によれば、自分は死に値するのです。この事実と、彼は三日間向き合わされました。三日間という期間が、主イエスの十字架と復活を思わせます。彼はキリストにあって死んだのです。もちろん心臓は動いています。しかしそれまでの彼の生き方は、弁解の余地なく死んだものでした。これほどまでに打ちのめされたサウロを、主イエスは招き、使徒として召されるのです。それは、サウロだけのことではありません。このときサウロを招かれた主イエスは、わたしたちを招かれたお方でもあります。このお方は、それまでの自らの生き方に打ちのめされた者を招かれるお方なのです。わたしたち自身から出る行動は、それがいくら信仰的な行動に見えたとしても、主イエスを迫害するものでしかないのです。主イエスの十字架をなきものにし、自分自身を救い主とする行為しか、わたしたちの内からは出てきません。まさに神の御前に無価値で死んだ歩みです。この事実に心から打ちのめされ、自分自身が神の御前に死ぬべき存在なのだという思いに至ったときに、主イエスは出会ってくださり主イエスに従う歩みが始まるのです。わたしたちにこのことが起こるのが、洗礼です。成人洗礼式の式文のなかに「洗礼を受ける者は、自分自身が、キリスト・イエスにあって罪に対して死に、神に生きる者とされた」とあります。キリスト・イエスにあって罪に対して死ぬ。この姿が、まさに今日のサウロの姿です。洗礼を受けている兄弟姉妹は、自らの信仰生活がまさにこのサウロの姿から始まったことを覚えたいのです。どれほど道徳的で信仰的に見える行動でも、自分の中の何かに期待して歩むことが、いか主イエスの十字架を見えなくし主イエスを迫害することになるのか。この事実に打ちのめされるときに、わたしたちは洗礼を受け主イエスの招きに与ったのです。まさにそのときから、本当の意味で神に従う喜びの歩みが始まりました。そしてその歩みが、今に続いているのです。