2020年1月5日礼拝説教「御言葉に示された方を求めて」

 

 

聖書箇所:使徒言行録8章26~40節

御言葉に示された方を求めて

 

 エチオピアの宦官が洗礼に導かれる場面です。直前の箇所でサマリアの町に福音を告げ知らせたフィリポに、主の天使がガザに下る道に行くように命じます。そこは寂しい道だと言われています。寂しい道とは、荒れ野を指す言葉です。人が好んで行く場所ではありません。天使に命じられるままにフィリポがそこへ行きますと、エチオピアの宦官がおりました。彼は大変身分が高い人でありました。庶民が気軽に声をかけることのできるような人ではありません。そんな人に声をかけるようにと、今度は“霊”はフィリポに命じます。今日の箇所では明確な神の御心が示され、フィリポはそれに動かされています。天使や“霊”が命じなければ、彼は荒れ野に行くことも宦官に声をかけることもなかったはずです。それゆえに神の御心が明確に示されていると言えます。そして直前のサマリア伝道とは異なり、ここでの回心者は一人です。神は一人の人の回心に大変な熱心を持っておられるのです。

 エチオピアの宦官は、エルサレムに礼拝に来たあと、自分の国に帰る途中でした。当時のエチオピアは現在のエチオピアと少々位置が異なりますが、エルサレムから遠く離れた外国であることには変わりありません。そこから礼拝するためにわざわざエルサレムに来たわけですから、この宦官が熱心なユダヤ教徒であったことが伺えます。彼は聖書を熱心に朗読していました。しかしそれが彼の渇きを満たす信仰とはなっていなかったようです。彼は寂しい荒れ野の道を旅していました。それは彼の人生の歩みそのものを表しているように思います。聖書の神を求めながらも、なお満たされることなく荒れ野の道を進んでいる。そのような者と共に行けと、神はフィリポに命じられたのです。フィリポは宦官に、読んでいることが分かるか尋ねます。すると宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みました。彼は手引きを必要としていました。手引きを受けずに自分で聖書を読むことも時には重要ですが、洗礼へと導かれるためには手引きが必要となってくるのです。このときのエチオピアの宦官にとっては、特にそうでした。なぜなら、このときはまだ旧約聖書しかなかったからです。しかも彼はエチオピアの人で、生まれながらに聖書に親しんでいたわけでもありません。そんな彼のために神は、手引きをする者としてフィリポを遣わされたのです。

 32,33節を見ますと、宦官がイザヤ書53:7,8を読んでいたことがわかります。神の僕の苦難を記した箇所であり、救い主、メシアを語るうえで大変重要な箇所です。しかしそれが誰か、宦官には分かりませんでした。そしてフィリポに教えを請いました。フィリポは口を開いて手引きを始めます。彼は求められた箇所から始まって、聖書全体にわたって説きおこしました。こうして彼は、宦官に主イエスについての福音を宣べ伝えました。そのことを理解したとき、この宦官は洗礼へと導かれました。フィリポの手引きによって宦官は、聖書全体を主イエスについての福音として理解することへと導かれました。それによって彼は洗礼へと導かれたのです。彼が洗礼を受けたあと、主の霊がフィリポを連れ去りました。残された宦官は、喜びにあぶれて旅を続けました。もはやそれは、寂しい道を行く荒れ野の歩みではありません。聖書を主イエスについての福音として読むときに、人生は喜びの歩みへと導かれるのです。

 一人の人が洗礼へと導かれる過程において、聖書を主イエスについての福音(喜びの知らせ)として読むことがいかに大切かを、この物語から思わされます。主イエスについての喜びの知らせとして聖書を読むときに、聖書の御言葉は人の歩みを喜びへと変える大きな力を持つのです。また聖霊は、人の働きを無視した劇的な方法で、聖書を理解させることをなされません。導き手を召し出し、手引きを受けることによって、聖書を主イエスについての福音として理解するようにお導きになるのです。そしてこの聖霊は、わたしたちをもフィリポと同じ働きに召し出されるのです。そのためにわたしたちは、ときに行きたくもない寂しい道へと導かれるでしょう。声をかけたくもない人に声をかけるように命じられます。こうして出会う一人の人が、わたしたちの手引きによって、聖書の御言葉を主イエスについての福音として読むことを神は望んでおられるのです。わたしたち皆が手引きをする者として召されている以上、手引きをする者自身が聖書を主イエスについての福音として理解している必要があるでしょう。主イエスについての福音の中心が何かといえば、主イエスの十字架と復活です。この出来事を、主イエスがこのわたしを救ってくださった喜びの知らせとして受け取っているか、聖書全体をその喜びの知らせとして理解しているか、今日改めて顧みたいのです。

 

 結局今日の箇所で宦官の中で起こった変化も、このことに尽きるのだと思うのです。始め宦官は、自分を御言葉の外におき、イザヤ書が誰のことを言っているのかという聖書の知識をフィリポに尋ねています。ところがフィリポが主イエスについての福音として告げ知らせたとき、単なる聖書知識の獲得だけでは終わらないのです。この苦難は、罪人であるこの自分を救うためであった。そのような理解へと導かれるのです。もはや自分を御言葉の外に置くことができなくなるのです。宦官がこの理解に導かれたからこそ、彼は洗礼へと導かれたのです。まさにこの手引きをするべく、わたしたちは今召されています。そのためにもまずわたしたち自身が、聖書の御言葉をわたしのできごととして聞く者でありたいのです。この喜びの知らせとして聖書を受けとめることへと導かれたとき、聖書の御言葉は一人の人の人生を荒れ野の歩みから喜びにあふれる歩みに変える力を持つのです。