2019年12月29日礼拝説教「新しい天地に向かって」

 

聖書箇所:ヨハネの黙示録21章1~4節

新しい天地に向かって

 

 先週はクリスマスを喜び祝うときを過ごしました。クリスマスは、救いのスタートとも言えるでありましょう。そして今日の箇所は、救いのゴールとも言える箇所です。今日はもう今年最後の主日です。このとき、救いのゴールについて思いを向けてまいりましょう。

 ヨハネは、新しい天と新しい地を見たと言っています。彼がこのように書くのは、そんな素晴らしい状況を見ることができないほどに教会が厳しい状況に置かれているからです。激しい迫害の中で教会が潰されていく。この言葉が書かれたとき、人々の大きな力によって教会が潰されていく結末しか見えない状況に教会は置かれていました。そのような教会に向けてヨハネは書くのです。わたしは新しい天と新しい地が来るのを見た、と。

 新しい天地は、最初の天地が去り、海がなくなることによってやってきます。最初の天地と新しい天地の違いは、簡単に言うならば支配のされ方の違いです。最初の地を支配するのは人の思いと力です。そこには海に象徴される死があります。そして最初の天は、地とは離れたところにあるようです。天とは、神様の支配が実現するところを指します。それが地と離れており、地に神の支配が見えない。これが最初の天と最初の地の姿です。このような状況の中に、地上の教会の置かれているのです。程度の差こそあれ、現代の衰えつつあるように見える教会の姿にも重なるのではないでしょうか。しかしそれは永遠には続かず、やがて過ぎ去るのです。では新しい天地はどのような世界でしょうか。天にある都が地上に降り、もはや天地の区別がなくなります(2節)。天と地が一つになる。神が天だけでなく地もご支配されるのです。主の祈りを思い起こしてください。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。この実現が、新しい天地なのです。クリスマスからスタートしたわたしたちの救いは、主の祈りの実現する世界に向かうのです。その途上において地上に置かれた教会は、神のご支配が一足先に地上で現れる場所なのです。

 では神が天も地もご支配される新しい天地では、どのようなことが起こるのでしょうか。玉座から語りかける大きな声が、それを教えてくれます(3、4節)。「死も悲しみも嘆きも労苦もない」という大きな希望が語られています。大切なことは、それが実現する過程です。新しい天地は、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる世界です。そこで神は自ら人と共にいて、その神となってくださいます。これは、「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたはわたしの民となる」という旧約から与えられている神と民との契約の実現であり、クリスマスに示された「インマヌエル」の実現です。そしてわたしたちと共にいてくださる神は、民の目の涙をことごとくぬぐいとってくださるのです。その結果、死も悲しみも嘆きも労苦もない世界が実現するのです。ただこれらはすべて未来形の言葉です。今はまだ、これらはあるのです。まだ最初のものは過ぎ去っていないからです。しかしいずれくる新しい天地においては、神がわたしたちと共にいてくださり、神がすべての涙をぬぐいとってくださり、死も悲しみも嘆きも労苦もなくなる。この希望の約束が、人の支配に翻弄されている教会に与えられているのです。この約束の実現が、インマヌエルと呼ばれる主イエス・キリストによって始まりました。そしてわたしたちが今いる教会において、この約束が実現しつつある姿が現れているのです。

 ところで、教会が新しい天地の現れならば、教会に死も悲しみも嘆きも労苦もあってはいけないのでしょうか。教会は救われた者たちの集まりだから、喜ばなくてはいけないのでしょうか。悲しんではいけないのでしょうか。そうではありません。なぜなら、今はまだ最初のものが過ぎ去っていないからです。しかし教会においては、神がわたしたちの目の涙をぬぐいとってくださるのです。神が涙をぬぐいとってくださるのですから、教会には悲しみも嘆きも労苦もあってよいのです。いえ、教会にこそこれらの重荷を持ち込むべきなのです。それらの解決を神に求めるよう、招かれているのです。もはや自分の力で、それらを乗りこえる必要はないのです。神に祈り求めてよいのです。神が、わたしたちと共にいてわたしたちの声を聞いてくださるからです。そして神が、涙をぬぐいとってくださるからです。神が民の涙をぬぐいとることによって、新しい天と新しい地は来るのです。これこそ、クリスマスにおける主イエスキリストの降誕によって始まったインマヌエルの姿なのです。教会自身に力はありません。涙の原因を解決する力は、わたしたちにはありません。しかし、共に祈って神に求めることができるのです。共に神に叫ぶことができるのです。このような働きをとおして、「死も悲しみも嘆きも労苦もない」新しい天と新しい地は来るのです。

 

 いまだ最初の天地は過ぎ去ってはいません。人による支配は、この世界に大きな力を持っています。しかし新しい天地の姿は、教会をとおしてもう現れています。涙を拭われる神の働きが、現れ始めています。ぜひこの視点で、今年一年の歩みを振り返っていただきたいのです。それぞれに、神の御業や御言葉によって、涙が拭われた経験をされたのではないでしょうか。ただ、まだぬぐいとられていない涙もあるでしょう。最初の天地が過ぎ去らない限り、教会の中にも外にも涙はあるのです。だからこそ、新しい天地を来たらせるわたしたちの働きも終わることはありません。神が涙をぬぐいとってくださる新しい天地を来たらせる。これこそわたしたちの召された働きです。この働きにこそ、大いなる希望があります。この希望の働きのために、新しい年も歩んでいこうではありませんか。