2019年12月15日礼拝説教「いかにして聖霊を受けるか」

 

聖書箇所:使徒言行録8章14~25節

いかにして聖霊を受けるか

 

 前回はフィリポがサマリアに宣教した場面を見ました。宣教による大きな実りがありました。エルサレムにいた使徒たちはそれを聞き、ペトロとヨハネをそこに派遣しました。宣教の働きは、教会的なものです。それゆえに、ペトロとヨハネはエルサレム教会から派遣されたのです。エルサレムから派遣された彼らがまずしたことは、神の言葉を受け入れた人々が聖霊を受けるように祈ることでした。聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからです。彼らが祈って人々の上に手を置くと、その人々は聖霊を受けました。洗礼は受けているが、聖霊はまだ降っていない。これがどのような状態かは、明確には分かりません。ただ前後の文脈からいくつかのことを知ることができます。まず、だれの上にも聖霊は降っていませんでしたが、彼らに聖霊が働いていないわけではありません。聖霊の働きがなければ、神の言葉を受け入れることなどできないからです。救いに関して言えば、聖霊が降る前の彼らに欠けているものはなかったと考えられます。そのうえで、ペトロとヨハネが手を置いて人々が聖霊を受けたことは、その人々に目に見える変化をもたらしました。18節でシモンがその様子を見たからです。おそらく聖霊を受けた人々の生き方に、大きな変化があったのでしょう。この様子を見たシモンは、金を持ってきて、自分も使徒たちと同じく手を置いて聖霊を与える力が欲しいと願いました。これがもとになりまして、シモンという名前が聖職売買の代名詞になりました。中世の時代に、教会が世俗化するなかでそのようなことが行われていたことがあります。ただ、それが御心にかなわないことは誰の目にも明らかです。シモンはそんなにも浅はかだったのでしょうか。そのように解説する注解書もあります。しかしわたしは、シモンのこの行動が、そんな単純な教訓のために書かれたとは思えないのです。「シモンは金を持って来て」とあります。持って来るという言葉は、ささげる、とも訳せる言葉です。彼は金でペトロとヨハネに取り入ろうとしたのではなく、献金しようとしたのです。教会への献金です。金そのものは、決して悪でも汚れたものでもありません。彼自身が苦労して働いた労働の実りを、教会にささげたのです。彼の問題点は、その動機です。教会への貢献をとおして、聖霊を与える力、すなわち人の生き方を変える力を自分のものにしようとしたところに問題があったのです。

 自分の行動によって人を救いたい。誰しもそう思うのではないでしょうか。「あのとき、あなたが関わってくれたから、自分は救われたんだ」と言われたら、誰だって嬉しいのです。しかし自分の行動によって救いを起こすために金を積み上げて献金し、教会に奉仕して貢献するのが、シモンの姿です。そのような献金ならば、教会への貢献ならば、そんなものはお前と一緒に滅びてしまうがよいと、ペトロは言うのです。それは、神の賜物である聖霊を、金(すなわち自分の能力や貢献)で、手に入れようとする行為だからです。自分の働きによって人が救われてほしい。この思いの裏にあるのは、力のある者や努力できる者が救いの権利を持ち、そうでない者はその権利を持たないという考え方です。しかしフィリポや使徒たちが伝えていた福音は違うのです。福音とは、主イエスの十字架による救いの知らせです。それは人の力によらない、神の御業による救いです。だからこそ、金という自分の力によって救いをもたらそうとするシモンは、福音とは関係なくその権利もないのです(21節)。自分の力に価値を見出し、自分の力によって救いを与えようとする生き方は、主イエスの十字架という神の御業による救いとは相容れないのです。しかしそのようなシモンに対してもなお、22節では悔い改めと赦しへの招きの道が与えられています。

 本日の説教題は「聖霊をいかにして受けるか」です。聖霊は、神の言葉に基づいて働かれ、目に見える人の生き方を変える大きな力を持っておられます。この聖霊は、教会に沢山貢献し多く神に仕えたから与えられるのではありません。聖霊は、どこまでも神の賜物です。徹底的にこの理解に立つべきです。それはペトロとヨハネにとってもそうでした。だからこそ彼らは、まず初めにサマリアの人々が聖霊を受けることができるように祈ったのです。この祈りが聞かれて、神から賜物としての聖霊が与えられ、そしてサマリアの人々の生き方が変えられたのです。誰しも自分の働きによって誰かが救われたら嬉しいでしょう。そのことを、救われた方や周りの兄弟姉妹にそれが認められるならばなお嬉しいのです。ですが、それは決して自分の成果によってもたらされたのではないのです。どこまでも神の賜物が与えられた結果なのです。だからこそ、自分が救いに関わることへのこだわりを捨てなければなりません。自分ではない誰かの導きによって救いに導かれる人が起こされたならば、自分が導いたのと同じように、聖霊の働きとしてわたしたちは喜ぶのです。このことをとおして、わたしたちは自分の能力や功績による救いから解放されるのです。もはや、自分の功績など求めなくとも良いのです。わたしたちに与えられている働きとは、聖霊が与えられる環境を整えることです。最後は聖霊なる神御自身が、救いを実現してくださるのです。

 

 アドベントのときに、わたしたちがどのような救い主を待ち望んでいるのかを改めて思い起こしましょう。それは、人の功績によらず、自らの十字架と復活によって救いを与えてくださるお方です。ですからわたしたちは、自分の功績や能力に固執する必要はありません。神が賜物として、わたしたちに聖霊をお与えくださいました。救いをお与えくださいました。この聖霊の働きを求める者でありましょう。そして神の賜物である聖霊の働きの現れを、心から喜び神に感謝する者でありましょう。