聖書箇所:使徒言行録8章4~13節
迫害による福音の広がり
福音がサマリアに広まっていく様子が、今日の箇所に記されています。1:7の主イエスのお言葉にあります「ユダヤとサマリアの全土で」という部分が、今日の箇所から実現していきます。福音が広まるきっかけとなったのは、教会への大迫害でありました。迫害によって信者がユダヤとサマリアの地方に散っていきました(8:1)。ここで散らされた人々が、福音を告げ知らせながら巡り歩きました。その中の一人であるフィリポの働きがここで特に取り上げられています。彼は、教会に立てられた役員の一人でした。役員の筆頭が殉教したステファノで、二番目がフィリポでした。そんな彼も、迫害によって散らされた信者の一人です。彼は、サマリアの町を巡り歩くことになりました。そこで彼は、そこにいる人々にキリストを宣べ伝えたのです。
フィリポの話を、サマリアの人々はこぞって聞き入りました(6節)。非常に大きな実りがありました。このような実りをもたらすことができたのには、いくつかの要因があります。一つはサマリア地域の宗教です。その地域にはサマリア教団があり、モーセ五書と呼ばれる旧約聖書の最初の五つの文書のみを受け入れる立場でした。ユダヤ教からすれば、サマリア教団は異端の集団です。しかしモーセ五書のなかにもメシア預言があり(申命記18:15)、彼らもメシアを待ち望んでいました。彼らには、主イエスをメシアとして受け入れる宗教的な素地があったのです。もう一つ、フィリポの宣教がサマリアの人々に受け入れられた要因があります。それは、群衆がフィリポの行うしるしを見聞きしていたからです(6節)。フィリポが行ったしるしの内容が、7節に具体的に挙げられています。当時の人々にとって驚くべき奇跡を、フィリポが御言葉の宣教のしるしとして行ったのです。大切なことは、フィリポの行ったしるしの内容とその結果です。彼が行ったしるしの内容は、霊の追い出し、中風患者や足の不自由な人の癒しです。これらはすでに主イエスや使徒たちが行ったことです。フィリポは、彼らと同じ働きをしました。主イエスや使徒たちと同じように彼もまた、神の力によってしるしや奇跡をなし、町の人々に喜びをもたらしました(8節)。それゆえに人々は、フィリポの語るキリストの話にこぞって聞き入ったわけです。
ところでフィリポがこのような目ざまなしい働きをしたサマリアの町には、シモンという人がいました。彼は魔術を使って人々を驚かしていました。彼もまた、当時の人々が驚くようなことをしていました。当時の人々の常識を超える業という面では、シモンもまたフィリポと同じく奇跡を行ったと言えます。聖書にはシモンの行ったことが魔術であったと明らかにしています。しかしシモン自身が、自らの業を魔術であるとは言わなかったでありましょう。事実人々は皆、シモンのことを「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言っています。おそらく彼自身もそう思っていたのではないかと思うのです。奇跡を見た人々からすると、魔術による働きか、神の力による働きかは、分からないのです。これら二つを分けるのは、それぞれの働きがもたらす結果です。シモンは、自分が行ったことによって自分自身を偉大な人物であると自称しました。働きがどれほど驚くべきものであったとしても、自分自身を偉大な者であるかのように自称するためになすならば、それは魔術なのです。一方で、神の力によるフィリポの働きは、人々に喜びをもたらしました。しるしによって、人々の重荷が取り去られたからです。ただこの働きは、人々に喜びをもたらして終わりません。御言葉に聞くことへと導かれるのです。これこそ、神の力、聖霊の働きであり、福音宣教の原動力です。12節には男も女も洗礼を受けたとあります。彼らは、しるしに驚いて、あるいは癒してもらった喜びによって洗礼を受けたのではありません。それらは御言葉を聞くきっかけに過ぎないのです。彼らが最終的に洗礼を受けたのは、フィリポの語った神の国と主イエス・キリストの名についての福音を聞いて、それを信じたからです。驚くべきことに、魔術を行っていたシモン自身も信じて洗礼を受けることになりました。そしてフィリポに従う者となりました。ただ13節を見ますと、彼の関心の中心は、フィリポの語る御言葉よりもしるしと奇跡の方にあったようです。その結果彼は、14節以降で厳しい叱責を受けることになります。最終的に人を救うのは、しるしや癒しではなく御言葉です。しかしこれらは、御言葉が聞かれる環境を整えるために大いに用いられるのです。
教会は迫害の中にあり、危機の中にあります。そのような中で御言葉だけを語り、人々が負う重荷や病を無視するならば、人々に受け入れられはしないでしょう。ですからわたしたちは、しるしや奇跡を行うことに真剣にならなければなりません。それらはなにも超自然的な治癒を祈り求めることではありません。人々の重荷を担い、それを取り去る働きです。わたしたち自身が御言葉に生きる者としてそれらを行うことによって、人々は御言葉にこぞって聞き入ることへと導かれるのです。神はまずわたしたちを愛し、主イエスの十字架によってわたしたちの重荷を取り去ってくださいました。だからわたしたちは、御言葉を信じ、このお方を求めることができたのです。自分の重荷を取り去ってくれるか分からない方を、救い主として信じることなどできないでしょう。そのためにもまず神は、わたしたちの重荷を取り去ってくださいました。そのために、わたしたちを救われた救い主が世に来られたのです。このこと示す御言葉を、わたしたちは宣べ伝えるのです。だからこそ、人々がこの救いの御言葉を聞くために、御言葉を伝えることと共に、人々の重荷を取り去る御言葉のしるしを行うことにも真剣でありたいのです。そこにこそ、福音を広げる神の働きは、現れるのです。