2019年11月3日礼拝説教「今あなたを遣わそう」

 

聖書箇所:使徒言行録7章17~34節

今あなたを遣わそう

 

 訴えられたステファノの弁明の言葉に聞いています。今日の箇所からはモーセの話に入っていきます。ステファノが訴えられている罪状の一つが、モーセへの冒涜でした。しかしステファノが伝えている主イエスこそが、モーセの預言した救い主であることを、ステファノは今日の箇所以降で力強く証ししていくことになります。

今日の箇所の語り出しで、神がアブラハムになさった約束の実現が近づいてきていると言われています。約束とは、5節にある約束です。この約束の実現のときがいよいよ近づいてまいりまして、民は増え、エジプト中に広がりました。しかしここで始まったのは、ヨセフのことを知らない別の王による虐待でありました。乳飲み子の命すらも殺す壮絶な虐待が、選びの民に降りかかりました。そのような状況にある「このとき」、モーセが生まれました(20節)。「このとき」は、17節の「約束の実現する時」とつながっています。神の約束を実現する働きを将来的にすることになるモーセの誕生が、すでに神の約束の実現のときの一部として語られています。指導者が誕生し、彼が民を導き、神の約束のとおり約束の土地が与えられる。この一連の流れすべてが神の約束の実現なのです。この流れは、主イエスにおいても同じです。ですからクリスマスの記事は、神の約束の成就、神の約束の実現の一部として語られているのです。

 続いて、モーセの成長について記されています。モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました(22節)。後半部分を原文に沿って訳しますと「彼の言葉と行いの内に力があった」となります。これがルカ24:19の、主イエスを証しする証言とつながります。ステファノはこの箇所をとおして、モーセと主イエスのつながりを明らかにしています。このようにして、自らが主イエスを宣べ伝えることは、モーセの冒涜ではなく聖書に則したことなのだと示すわけです。23節からは、モーセが神の働きへと召されていきます。彼が40歳になったとき、彼は兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。そして行動を起こしました。モーセは神のために、神の民を守ったのです。しかしその働きは理解してもらえませんでした。「きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか」と言われ、拒否されてしまいます。なぜでしょうか。それはモーセが、同胞が直面している痛みを知らなかったからです。彼自身はエジプトの王宮で何不自由なく暮らしていました。そんな彼に、「わたしがあなたを救う」と言われても、実際に痛みの中にあえいでいる民に対して説得力を持たないのです。相手の痛みを知り、その痛みを共にしなければ、その相手の痛みをいやすことはできないのです。

 同族民から拒否されたモーセは失意のうちに40年間ミディアンに住むことになりました。80歳になって年をとりました。民を助けようと思い立った40歳のモーセが持っていた輝きや力はもうありません。弱くなったこのモーセを、神は、神の約束を実現する指導者として召し出されたのです。34節で神は、シナイ山の荒れ野において、柴の燃える炎をとおしてモーセに語りかけられました。神はただモーセを遣わそうとされるのではありません。何よりもまず神が、ご自身の民の不幸を見、嘆きを聞いてくださっています。そしてまず神が降って来られました。神は苦しむ民のところに自ら降ってこられ、苦しむ民のただ中に来て彼らを救われるお方なのです。その働きのために神は、40歳の力に溢れたモーセではなく、80歳の力を落としたモーセを召し出されたのです。この神の働きをなすためには、80歳のモーセでなければなりませんでした。40歳のモーセが召し出されていたとしたら、神の働きが立派なモーセの働きに成り代わってしまうからです。人を救うことができるのは、人の立派さではありません。民の痛みを誰よりもご存知の方、すなわち神以外にはありません。その働きのために、40年間ミディアンで嫌というほど自分の欠けを示されたモーセが召されたのです。

 こうして見ますと、神がどのような人に目を向け、どのような人を働きへと召されるか、よくわかります。神は虐げられ、痛みの中にある民に目を留められます。そしてその民のところに降られて救われます。その働きのために、民の痛みを知る者を召し出されます。80歳のモーセがそうでした。そしてときが満ち、主イエスキリストが、十字架をとおして民の痛みを知る真の救い主として、また世に降られた神として、救いの御業をなされました。このように神は、苦難の中にある民に目を留められ、彼らのために降ってくださるお方です。そして神の御業をなす救い主イエスキリストは、十字架によって誰よりも民の痛み知り、苦しみの中にある人々に寄り添われました。だからこそわたしたちも、痛みを知る人々を大切にしなければなりません。苦しみの中にある方々に目を向けなければなりません。神が、その方々に目を向けられるからです。そしてそのような方々をとおして、神の御業が現れるからです。それと同時に、神に召されているわたしたち自身がどのような者であるかということも改めて目を向けたいのです。神は、わたしたちの持つ能力の故にわたしたちを召されたのではありません。わたしたちが欠け多く無力だからです。80歳の弱いモーセが召されたように、神は弱いわたしたちを召し出されたのです。わたしたちに力がないからこそ、わたしたちをとおして神の御業が現れるのです。弱く欠けあるわたしたちをとおして現れる神の御業にこそ、人を救う力があるのです。神はこの礼拝の場にも降られて、モーセに語られたように、わたしたちにも語りかけられておられます。

 

「さあ、今あなたをこの世界に遣わそう」