2019年10月27日宗教改革記念礼拝説教「キリスト者の自由」

 

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一9章19~23節

キリスト者の自由

 

 1517年10月31日にルターが95か条の提題を貼り出したことから、毎年この時期に宗教改革を覚えて礼拝をささげています。ルターが残した文書のなかに「キリスト者の自由」があります。自由。これが宗教改革の一つの大きなテーマであり論点でした。人はただ信仰によってのみ義と認められ救われる。ルターのこの主張は、裏を返せば「いかに信仰深く見える人の行為もいっさい救いの根拠とはならない」ということです。これは「何かをしなければ救われない」という窮屈な救いの理解からの解放を意味します。まさに自由です。しかしこのような主張によって「人の行為は全く無意味なのか」という批判を受けることを、ルターはよく心得ていました。そして彼は、キリスト者は自由な者でありながら、仕える者でもあることを語ります。このことを説明したのが「キリスト者の自由」という文書です。そしてその冒頭に引用されているのが、今日の御言葉です。

 パウロはこの御言葉の冒頭で「わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と語っています。まずパウロは、自分が誰に対しても行動を強制されない自由な者であると語っています。かつての彼は、キリスト者を迫害する者でした。そのときのパウロは「律法を実行しなければ救われない」という不自由な救いの理解に立っていました。そんな彼がキリストと出会いました。これほど大きな罪を犯したわたしが、なおキリストの十字架によって救われた。キリストに出会うことによって、彼は「何かをしなければ救われない」という窮屈な救いの理解から解放されたのです。こうして自由にされたパウロが、「すべての人の奴隷になりました」とも語っています。つまり彼は、自ら進んですべての人の奴隷となったのです。なぜ自由を得たパウロは、わざわざ自らすべての人の奴隷となったのでしょうか。できるだけ多くの人を得るためです。ここで「得る」という言葉は「救う」と同じ意味で用いられています。一人でも多くの人が主イエスの救いに与るために、すでに救われた自分は喜んですべての人の奴隷となったのです。では自らの意志で奴隷となったパウロは、誰に対してどのように仕えたのでしょうか。20節以降には、四種類の人(ユダヤ人、律法に支配されている人、律法を持たない人、弱い人)のようになったことが記されています。パウロは様々な立場の人に対して、その立場を理解し寄り添いながらキリストを宣べ伝えていたことがうかがえます。この行動を総括して「すべての人に対してすべてのものになりました」と記しているのです。ところで原文のギリシャ語では、最初の三種類の人々と最後の弱い人で文が分かれています。おそらく最初の三種類の人々は教会の外の人々であり、弱い人だけは教会の中の信仰の弱い人々を指すであろうと思われます。信仰の弱い人とは、救われたにもかかわらず「あれをしなければ救われない」という考えから抜け出しきれていない人々です(8章参照)。パウロ自身は「あれをしなければ救われない」という窮屈な救いの理解からは解放されて自由です。しかし、教会の外にも中にも、まだこのような考え方に縛られている人々がいるのです。そのような人々に対してパウロは、頭ごなしにそれを否定しません。かえって、こういった人々が主イエスの福音に与るために、彼らと同じようになり、彼らに進んで仕え、その痛みに寄り添ったのです。誰よりも主イエスが、人々に仕えて寄り添われるお方だからです。

 ルターが教えているように、信仰による救いは、真の自由をもたらします。この救いにあずかる前、救われるための何かしらの行為に縛られて生きなければなりませんでした。そういった窮屈な救いの理解から解放してくれる教えこそ、信仰による救いであり、ルターの主張した「キリスト者の自由」なのです。わたしたちもまさにこの恵みにあずかっています。わたしたちは、自らの行動によってではなく、ただ信仰によって救われています。しかし自由にされたわたしたち自身も、ときに信仰が弱くなるときがあります。すなわち「あれをしなければ救われない」という理解に無意識のうちに陥ることがあり得るのです。例えば、教会のためにたくさん奉仕をしなければキリスト者失格ではなかろうか、と思うとき、苦しみの中で無理してでも奉仕をしなければならなくなります。さらに、自分より奉仕をしていないように見える人を裁くことしかできなくなります。それではだめだ、キリスト者失格だ、と。同じことが献金についても、伝道についても、礼拝出席についても言えるでしょう。そう考えますと、わたしたちが誰かに寄り添うためには、誰にも自らの行動を強制されない自由を得ている必要があります。パウロがすべての人の奴隷になることができたのは、誰に対しても自由な者とされていたからなのです。自由になる前のパウロは、自分の考えに沿わない人の罪を責め立てることしかできませんでした。そんな彼が、主イエスによって自由にされました。そして福音のため、また人々の救いのために、喜んですべての人の奴隷となったのです。生き方が180度変わりました。これこそ主イエスのもたらす自由の力であり、信仰による救いの力なのです。

 「キリスト者の自由」のなかでルターは、自由となったキリスト者は隣人への愛に生きるようになると記しています。そして自由とされた人々に対してこのように勧めています。

「隣人の罪を覆い、その罪を自らの身に負い、その罪が私自身のものであるかのように行うこと、それ以外のことを私たちはすべきではない。」

 

キリストによって自由にされたわたしたちこそが、喜んですべての人の奴隷となって寄り添い、他者の罪を覆うことができるのです。これこそ、宗教改革によって再発見されたキリスト者の自由なのです。