聖書箇所:歴代誌上21章1節〜22章1節
神の宮があるべき場所
本日は一泊修養会に伴いまして、会堂建築に向けた教会の将来像・ビジョンについて取り上げます。会堂を考えるうえで一つの参考になりますのは、旧約時代に建てられました主の神殿です。ただし旧約時代の神殿と現代の教会堂を全く同一視することはできません。むしろ主の神殿は時代を経て、キリストにおいてその姿を現し、現代においてはキリストの体なる教会という信者の集まりへとつながっていきます。教会堂は、教会ために用いられる器です。ですから、会堂を考えるうえでまずは教会という集まりの土台がどこにあるのかを考えてまいりたいのです。そのために心に留めたいのが、「神なる主の神殿はここにこそあるべきだ」というダビデの言葉です。
この言葉は、21章のダビデの犯した人口調査の罪からの流れで語られています。まずはこの記事に至るまでのいきさつを概観しておきます。17章の冒頭におきましてダビデは、主のために神殿を建てようと決意しました。これに対して17:11以下で神は、ダビデの子孫によって主の神殿が立てられると約束されています。ここで主の神殿を建てるビジョンが与えられたわけです。その後18章~20章にかけまして、ダビデが様々な戦いに勝利したことが記されます。神様からビジョンを与えられ、外国との度重なる戦いに勝利して絶好調なダビデが、21章で人口調査の罪を犯してしまったのです。ダビデ王の失敗といいますと、まず思い起こされるのはバトシェバとの姦淫の罪です。今回の人口調査の罪よりも、バトシェバのときの罪の方が重いように感じるかもしれません。しかし、罪の結果もたらされた神の裁きから見ますと、神の目にはこの人口調査の方がはるかに重い罪であったようです。人口調査の罪に対しては、イスラエル全体に壊滅的な被害がもたらされます。ダビデの人口調査がこれほど重罪である理由は、明確には示されてはいません。ただし人口調査という行為そのものが罪であるわけではないのです。民数記には、神の御指示によって人口調査がなされた記事が記されているからです。一方ダビデの人口調査は、神の御命令によりません。おそらく勝利を重ねておごり高ぶったダビデが、人間的な動機によって人口調査をしたのでしょう。神から与えられた神の民を、自分の持ち物のように扱ったのです。これに対して神の厳しい裁きがくだりました。
8節にはダビデは早々に自らの罪を認めている姿が記されますが、神は重い裁きをくだされました。ただしこの物語の中心は、厳しい裁きのなかでもなお注がれる神の憐れみの深さです。13節にある「主の慈悲は大きい」というダビデの発言にも、この方向性が示されています。ダビデの人口調査に対する裁きとして、エルサレム全体に疫病がもたらされました。この疫病は、主の御使いによって実行されました。その様子を主がご覧になりまして、災いを思い返されました。このとき御使いは、エブス人オルナンの麦打ち場に立っていました。それを見たダビデは、地に顔をつけて伏し、改めて悔い改めの言葉を語ります。すると預言者ガドをつうじて、オルナンの麦打ち場に祭壇を設けることが命じられます。ダビデはさっそくそこに出向き、その場所を買い取って主のための祭壇を築きました。そこで焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、罪の赦しと和解を祈り求めました。神も火をもってそれにお応えになり、こうして御使いによる裁きは終わりました。そしてダビデは言うのです。「神なる主の神殿はここにこそあるべきだ」と。
ダビデが「ここにこそ」と言ったオルナンの麦打ち場は、この物語においてどのような場所だったでしょうか。そこは主の御使いがエルサレムを滅ぼそうとした場所であり、主が災いを思いなおされた場所です。そして、主が祭壇を立てるよう選ばれた場所であり、悔い改めと和解のいけにえが受け入れられた場所です。つまりそこは悔い改めと罪の赦しの場所です。これが、主の神殿の土台であるべきだとダビデは言ったのです。この場所に神殿が立つということは、ダビデにとって後世に自分の恥をさらすことを意味します。同時にそれでもなお神の憐れみと赦しがあるということをも示されるのです。神の御前に犯された罪とそれに対する神の憐みと罪の赦し。これを土台として、神の宮は立つべきなのです。わたしたちの教会も、同じ土台の上に建つべきでありましょう。教会にキリストの十字架を掲げるにあたって、自らの罪を無視することはできません。わたしたちは神に逆らい、神の思いではなく自分の思いで生きてきた。いや今もそのように生きている。しかしわたしたちのそれらの罪は、十字架によって取り除かれて赦されたのです。この悔い改めと罪の赦しこそ、教会の土台です。
今の浜松教会は、神様の恵みが注がれているとまわりの方々から言ってもらえる状況にあります。だからこそ今わたしたちは、教会の土台を思い起こさなければなりません。今までの自らの歩みを悔い改め、神の赦しを請わなければなりません。それを土台にして、新たな歩みを始めなければなりません。この悔い改めと罪の赦しを土台として、この日本キリスト改革派浜松教会を建てあげなければならないのです。教会の将来像であるビジョンを祈り求めることは、これまで自分たちが至らなかった罪を見つめ直すことでもあります。ここから、教会のビジョンは見えてくるのです。こうして教会のビジョンが示されたならば、悔い改めの行動として現れなければなりません。反省だけして行動が伴わないのは、悔い改めではないからです。こうして悔い改めてもなお、わたしたちの歩みは神の御前に罪だらけ、欠けだらけでありましょう。しかし神は、主イエスの十字架によってわたしたちを赦してくださる。豊かに赦してくださるのです。ここにこそ、わたしたちの建てあげるべき教会の土台があるのです。