2019年8月25日礼拝説教「生と死の分かれ目」

 

 

聖書箇所:創世記7章1~24節

生と死の分かれ目

 

 7章には、前半に箱舟に入るときの様子が、後半に洪水が起こったことによる結果が記されています。6章の末尾から7章の前半にいたるまで、同じ場面が繰り返されています。それによって、ある強調点がこの部分にあると言うことができます。ノアの箱舟と聞いて多くの方がまず思い浮かべるのは、ノアが箱舟を造る場面ではないでしょうか。しかし創世記は、箱舟に入る場面の方により強調点を置いています。

 神はまずノアと家族は皆、箱舟に入るように命じられます。神がノアにこう命じられるのは、ノアが御自分に従う人であることを神が認めておられるからです。「わたしに従う人」と訳されている部分は、もともと「義人」、「正しい人」という意味の言葉です。神とノアとの関係が正しい状態にあったということを意味しています。結局それは、彼が自分の思いではなく、神に従う者であったということです。だからこそ神は、彼に言葉を語りかけられたのです。続いて神は、動物をも箱舟に入れるようにノアに命じます。清くない動物に比べて清い動物が多いのは、それらがノアと家族の食料となり、また神への捧げものにも用いられるためでありましょう。神のこの御命令の目的は、洪水の後も全地の面に子孫が生き続けるためです。神の思いの中心は、世界を滅ぼすことにあるのではありません。御心にかなったかたちで人も動物も生き続けることが神の御心であり願いなのです。洪水はそのための最終手段なのです。

 ここで神は、洪水までに7日間の猶予期間を設けられました。この時間があるからこそノアは、すべて神が命じられたとおりに行うことができました。ところで、動物も鳥も地を這うものも箱舟のノアのもとに「来た」と記されています。しかもそれは神が命じられたとおり雄と雌でした。この7日間、ノアは神の御命令を果たすために尽力したでありましょう。けれどもそれ以上に神御自身が、ノアのために備えてくださったのです。わたしたちが神に従って歩むことができるように、神が備えてくださるのです。わたしたちは神の備えに頼ることによってはじめて、神にお従いすることができるのです。ところでノアは、神の御命令を果たすことだけでなく、周囲の目に耐える努力もしなければならかったと思うのです。このときまだ雨は降っていません。しかし彼は巨大な箱舟を造りました。これだけでもノアは周囲の人々から奇異の目で見られたでありましょう。さらにノアは、その舟に家族や動物たちを入れ始めました。それを見た人々は、ノアはいよいよ気が変になったと思ったに違いありません。その視線に耐えながら、黙々と神の御命令を果たす。それがノアにとっての洪水前の7日間でありました。

 ところでこの7日間の間、箱舟の扉は開いていました。ですからノアを見ていた人々も、箱舟に乗り込むことがこのときはまだ可能でした。しかしそれをする者はいませんでした。そしてついに神の御命令から7日が経ちました。16節の最後で、主はノアの後ろで戸を閉められました。このとき、戸の中にいるか、それとも戸の外にいたのか。これが生死の分かれ目となりました。箱舟の外にいた生き物はみな生きのびることができませんでした。21節以降、このことが「息絶えた、死んだ、脱ぎ去られた」と少々くどいほどに繰り返されています。しかしノアと、彼と共に箱舟にいたものだけは残ったのです。洪水という大きな試練の中にあって、神の御声に従いつづけたノアと、またこのノアの招きに応じて箱舟に入ったものだけが、神によって残されたのです。

 さてこの洪水の物語は、現代を生きるわたしたちにどのような意味をもつのでしょうか。これから先、洪水が起こって世界が滅ぼされるということはもうありません(9:11)。しかし洪水とは別の試練が来ることが、ペトロの手紙二3:3~7に示されています。現在の天と地とは、火で滅ぼされるために取っておかれている状態であると、ペトロは記します。火で滅ぼされるとは、主イエスが再び地上に来られて裁きを行うことを指しています。ところで洪水が起こる前、あらかじめ神はノアにそれを伝えられました。そして神の予告通り7日後に洪水が起こりました。そして現在、このペトロの手紙の御言葉によって、この天と地がいずれ火による裁きを受けることが、あらかじめ明らかにされています。しかしこのことはまだ実現していません。このような今は、洪水のときでいうならば、ノアが箱舟に救うべきものを招き入れた7日間に対応するでありましょう。

 

 今はまだ、わたしたちの命を救うことのできる箱舟の扉は開いています。わたしたちにとっての箱舟とは、十字架によって贖いをなされた主イエス以外にはありません。今このときは、誰もが主イエスを信じ、悔い改めて救われることができるときなのです。そして事実わたしたちはこのときに、主イエスキリストという箱舟に乗せていただくことができたわけです。では、もうわたしたちは何もしなくてもよいのか。決してそんなことはありません。ノアが救われるべきものを箱舟に招き入れたように、わたしたちも人々をキリストの御許に招き入れる役割が与えられています。それは、周りの人々からすれば、おかしな行動に見えるかもしれません。まだ雨は降りだしていないからです。しかし戸が閉まってからでは遅いのです。いま、わたしたちは人々を招かねばなりません。それがわたしたちの使命です。しかしわたしたちは、それを自分の力でなすのではありません。ノアのところに動物たちが来たように、わたしたちが神の御言葉に従って歩むとき、神は必ず救われるべきものを、主イエスキリストの御許に導いてくださいます。この御業を信じて、わたしたちも人々を招いてまいりましょう。