2019年8月18日礼拝説教「偽りの平和から真の平和へ」

 

 

聖書箇所:エレミヤ書8章8~13節

偽りの平和から真の平和へ 

 

 国語辞典を引きますと、日本語の「平和」の意味は「心配やもめごとがない状態」「戦争や災害などがなく、不安を感じないで生活できる状態」と記されています。しかし聖書の語る平和は、日本語の意味する平和と必ずしも一致するわけではありません。

 今日の個所において預言者エレミヤは、「平和、平和」と言っている人々を批判しています。ここで批判されている人々は、彼らなりの平和を享受していたようです。おそらくさきほどの国語辞典に記された意味に近い、生活の安定という意味での平和が彼らの周りには実現していたと考えられます。しかし、彼らが繰り返し口にしている平和は、聖書の語る平和ではないのです(11節)。今日の御言葉は、特に神の民イスラエルの指導者たちに対して語られた預言です。彼らと神とのあいだに、「平和」に対する認識のずれが生じてしまっています。神から見れば、平和と言うことができない状況です。しかし指導者たちは、「平和、平和」と言っているのです。イスラエルの指導者たちと神との間に生じた、この「平和」に対する認識のずれ。これを明らかにしているのが、「手軽に治療して」という言葉です。指導者たちも、イスラエルの民に悲惨や破れがあり、平和とは言えない状況があることを認識していました。しかし指導者たちは、それを手軽に治療してそれでよしとしたのです。決して民の破滅は解決していないのに、もう平和になったと言ったのです。ではイスラエルの指導者たちが行った「手軽な治療」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。ある英語訳聖書は「手軽な」という部分を「without concern」と訳していました。concernとは、「関心事」とか「気づかい」という意味です。イスラエルの指導者たちは、自分たちの周りには平和と言える状況を確保していました。しかし自分たちの民の悲惨や破れを自らの関心事とせず、気遣うことをしていませんでした。根本的な解決をしようとせず、うわべだけを取り繕って平和、平和と言っていました。現代の社会状況に重なると思いませんか。そんな状況は、神の望まれる平和ではありません。偽りの平和です。そこに神の平和はありません。

 イスラエルの指導者たちの問題点は、平和を自分たちの周りだけに限定したことです。自分たちの周りには、一生懸命平和で安心な状況を造りだしていました。しかしその枠の外側の人々が平和であるかどうか。それに関しては無関心でした。彼らは指導者ですから、民の困難、苦悩について見聞きし対応するべき立場にありました。しかしそれに対して「神がなんとかしてくれるよ」「神の祝福があるよ」というような手軽な言葉によって治療をしていたのです。自分では、民のために指一本動かすことをせずに「平和、平和」と言っていたのです。自分たちの周りだけの平和を求めること。これを国の政策として行うならば、自国第一主義となるでしょう。それは自分の周りの外側にいる人々の平和を踏みにじってまで、自分の周りの平和を実現することになります。こうして殺し合うのが、戦争の姿ではないでしょうか。ただ、この御言葉は政治批判で終わってはなりません。旧約聖書にあるイスラエルの民の姿は、常に教会の姿と重なります。教会にも、同じ状況が起こっていないでしょうか。

 一つの事例をお分かちしたいと思います。とあるキリスト者向けのインターネットラジオ番組の放送で、ある若者が取り上げられました。この方はクリスチャンホームに生まれたけれども、今は教会を離れています。かつてこの方は、ある悩みを抱えて教会の方に相談をしたようです。すると、返って来る返答は「神様の導きがあるから大丈夫だよ」というようなことばかりだったようなのです。それは、この若者も頭では分かっているのです。それでも苦しくて、悩みを聞いてほしかったのです。しかし相談しても真剣に悩みを受け止められることなく、「神様の導きがあるから大丈夫だよ」という安易な返答をかけられました。この若者は、ついに教会を離れていきました。相手の悩みや苦しみに寄り添うことなく、神の導きや祝福を語って安易に済ましてしまうこの姿こそ、自分たちの民の破滅を手がるに治療して「平和、平和」と言っているイスラエルの指導者の姿そのものではないでしょうか。このような姿の教会に、神の平和はないでしょう。これは裏を返せば、民の破滅の状況に真剣に向き合うところに神の平和があるということです。

 日本語の意味としての平和は「心配やもめごとがない状態」でした。しかし聖書は、平和を語る上でそのような理想を想定しません。民に破滅があるのです。心配やもめごとはあるのです。実際にわたしたちの歩みもそうではないでしょうか。誰もがいろんなものを抱えて生きています。それが教会の現実です。それでもあらゆる人の破滅、痛みや破れを、自らの関心事として寄り添うことができるならば、そこに神の平和は実現するのです。

 

 このような平和をもたらしたのが、キリストの十字架です。キリストは神の立場という安全な場所にいたまま、民の破滅を治療することはなさいませんでした。十字架上で自らの血を流され、わたしたちの破滅に寄り添われたのです。こうしてわたしたちに、神の平和が与えられました。13節で「わたしが与えたもの」と神が言われているのは、このようにして与えられた平和です。この平和を与えられたわたしたちが、それを失ってはなりません。わたしたちもまた、人々の破滅にあるような状況に寄り添うことをとおして、神の平和は実現していくのです。キリストの十字架が示すのは、神がわたしたちの痛みに徹底的に寄り添われたということです。だからこそわたしたちも神から与えられたこの平和を、破滅の中にいる人々に、またここに集められた兄弟姉妹のために、よろこんで差し出してまいりましょう。