2019年7月28日礼拝説教「ノアよ、箱舟を造れ!」

 

聖書箇所:創世記6章9~22節

ノアよ、箱舟を造れ!

 

 直前までの記事を見ますと、地上に人の悪が増していくなかで、ノアだけは主の好意を得たことが記されています。その理由は、ノアが神に従う無垢な人であった(9節)ためです。「神に従う」とはもともと「正しい」を意味する語が用いられています。これは神と正しい関係の中にあることを指すのであり、意味としては「神に従う人」になります。またノアは無垢な人でした。罪に染まっていない人という意味です。聖書における罪とは、神の御心にかなわないことを指します。ですからノアが罪に染まっていないとは、神の御心に従って生きていたということです。これらの言葉の意味からすると、ノアという人の特徴を、神抜きにして、道徳的に完璧な人だと理解するのは正確ではありません。自分の考えではなく、神の御心を基準にして行動する人。これがノアという人でありました。

 ノアという人物の特徴が理解できますと、それとは対極にあった地上の様子がよくわかります。地上の悲惨の様子が5節や、11節などに記されています。しかしそれは、犯罪がはびこって社会が崩壊していたことを意味するのではありません。おそらく人は社会を形成し、そのなかでノアとは反対に、神の御心を無視し、自分を神として生きていたのです。その様子は6章の冒頭に記されています。自分が美しい、自分が英雄のように強いと思うものを求めて生きている姿です。これがノア以外の人々の姿でありました。ここにおいて、神の御心は一切考慮されていません。そして神が無視されることに伴う様々な不法、暴虐が世に満ちていました。それは世界を創造された神の御心とはかけ離れたものでした。それゆえに神は、地もろとも彼らを滅ぼすことをお決めになり、それをノアにはお伝えになったのです。

 ここで神は、滅びの中にあって生きる道をノアに示されました。神は箱舟を造るようにノアに命じたのです。箱舟の構造から、寸法に至るまで神は細かくノアに指示されました。これは、その当時の感覚からすれば常識外れなものでした。例えば寸法について言うならば、メートルに換算しますと全長約155m、幅26m、高さ16mです。いまでこそ超大型船が存在しますが、この書物が書かれた時代においてそれが常識外れの規格であったことは、想像に難くありません。子供のころにノアの箱舟の紙芝居を見たのですが、そこには箱舟を造るノアを周囲の人々があざけるシーンがあったのを覚えています。聖書にはそのようなシーンは描かれていません。しかし、ノアが箱舟を造るなかで、そうゆうことがあったと考えるのが自然です。箱舟を造ることに関する神の指示は、常識外れだったからです。そしておそらくノア自身も、巨大な箱舟を造る理由を理解できていなかったでありましょう。ノアは、周囲の人々に蔑まれながら、自分でも疑問に思いながらも、それでも神の御言葉による御命令だからという、この理由ひとつで箱舟を造りました。ここに、ノアが神に従う無垢な人であったことがよくあらわれています。

 さて、愚直なまでに神に従う人であったノアに対して、神は18節で契約を立てると約束されます。「契約」とは、原文では「わたしの契約」という語です。この契約における主権は、どこまでも神にあります。このような神主体の契約関係を結ぶことをとおして、神は選びの民を救いへと導かれるのです。神主体であっても契約ですから、双方になすべき義務が生じます。これは神の側から見れば、本来なににも縛られない神御自身が、義務の生じる契約関係を人と結んでくださるということです。これは神のへりくだりの出来事です。一方、神と契約関係に入る人の側にも、ただ救いの恵みを受けるだけでなく、神の御言葉に従う義務が生じるのです。このときのノアにとって、それは神が命じたとおりに箱舟を造ることでした。また18節後半以降にも、神はさまざまなことをノアに命じられます。これらのすべての神の御命令に対し、ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たしました(22節)。その結果、神が地を滅ぼされるなかにあって、ノアと家族は命を得ていくのです。それだけではありません。動物も箱舟の中に連れてきたことによって、地が再生へと向かうことが可能となったのです。

 

 神は御言葉によってこの世を救われます。それは神の御業です。しかしこの神の御業において、人間の働きが無視されることはありません。神の御言葉に従う人の働きをとおして、神の救いは実現されるのです。その保証が契約です。ただ神の御言葉は、多くの場合わたしたちの常識からかけ離れたものです。常識外れなのは当然なのです。神の御言葉がわたしたちの常識で考えても当然のことならば、神の御言葉を聞かなかった人々の住む地上に悪がはびこることはなかったでありましょう。人の常識に、人の考えに、人の言葉に、人を救う力はないのです。だからこそ今、自分の常識や判断とは異なる神の御言葉に聞き従わなければならないのです。何よりも主イエスの十字架と復活による救いが、わたしたちの常識を超えたものなのです。この常識外れの救い主によって、神は人を、そしてこの世界を救おうとされているのです。この神の救いは、人から見れば常識外れです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです(一コリ1:25)。だからこそ、わたしたちの目で見て良いと思うことではなく、神の目から見て良いことに信頼しましょう。それを示す御言葉に、聞き従おうではありませんか。そのためにわたしたちは、周囲の人々から「十字架なんて」「復活なんて」と言われることもあるでしょう。それでも神の御言葉に信頼し、そのために仕える者であろうではありませんか。これこそ、わたしたちに救いをもたらす信仰です。そしてこの信仰をとおして神は、わたしたちだけでなく、この世界全体を神の御心にかなう素晴らしい世界へと導いていかれるのです。