2019年7月7日礼拝説教「教会が人々にもたらすもの」

 

聖書箇所:使徒言行録5章12~16節

教会が人々にもたらすもの

 

 4:32から5:11では聖霊によって建てられた教会が、皆が持ち物を共有するというプラス面と、人の評価を求めるアナニアとサフィラが息絶えるというマイナス面から明らかにされました。このような教会の集まりが、周りの人々にどのような影響をもたらしたのでしょうか。これが今日の箇所において明らかにされてまいります。

 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われました。これは、4:30における信者たちの祈りへの神様の応答でもあります。しるしと不思議な業は、直接的には病気の癒しとして記されています。教会は驚くべき癒しの場なのです。それは常識を超えた奇跡的な出来事でした。奇跡と聞くと、科学の常識では考えられないこと、という面だけで考えがちです。しかし聖書に記される奇跡とは、何よりも人の力を超えた神の力と御支配の現れを明らかにするために記されています。この意味で奇跡を考えるならば、持ち物を共有するという驚くべき教会の実践も、アナニアとサフィラが息絶えたことも、どちらも神の御支配の現れであり、奇跡なのです。教会こそ奇跡が起こり続ける場です。そのような奇跡の場としての教会において、癒しという奇跡もなされたのです。ここでの癒しとは、単に体がいやされるということに限定されるものではありません。人が救われていくことの象徴として描かれています。癒しの出来事に象徴される人の救いが、この当時は聖霊に導かれた使徒たちの手によってなされたのです。そして今は、聖霊の働きによって記された聖書の御言葉によって、神の御支配の現れである奇跡がなされるのです。奇跡の源は、今も昔も聖霊なのです。

教会において、使徒たちの手によってなされた奇跡に対する人々の反応はさまざまです。まずは「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」とあります。「一同」とは、すでに主イエスを信じていた人々を指すでありましょう。使徒たちの手によるしるしと不思議な業をとおして、すでに主を信じている彼らは、改めて神に仕える思いを一つにしたのです。教会に新たに洗礼者が与えられれば、すでに教会に加えられているわたしたちも教会に仕える思いを一つにするのでしょう。同じことが、ここでも起こっていたわけです。ところでまだ主イエスを信じていない人々は、使徒たちの手によってなされたしるしと不思議な業を見てどのような反応をしたのでしょうか。13、14節では、「ほかの者」、「民衆」、「多くの男女」という人々が記されています。これらが具体的に誰を指すのかは、諸説ありはっきりとしていません。しかしいずれの説をとるにしても、使徒たちによるしるしと不思議な業を教会の外から見ていた人々を指す言葉であると言えるでしょう。そのような彼らの反応は非常に複雑なものでした。

 「ほかの者」はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしませんでした。仲間に加わる勇気がなかったとも訳せる言葉です。今日の前の箇所において、アナニアとサフィラが息絶えるという出来事が起こりました。そのことを聞いて、恐れたことが原因として考えられます。それゆえに、しるしと不思議な業を見ても、勇気をもってあえて教会に加わろうとしませんでした。しかし彼らはただ怖がって恐れていたわけではありません。教会に集う人々の様子を見て、「民衆」は賞賛していました。教会への評価はいつの時代も複雑です。教会を恐れながらも、そこに集う人々を賞賛する。あるいは、教会を恐れる人々もいれば、賞賛する人々もいる。そんな状況が、教会の周りには生まれるのです。そのような状況のなかで、「多くの男女」が主を信じて教会に加わっていきました。

 このように教会は、様々な反応を持つ人々の間で、数を増していきました。数的な成長だけではなく、教会の働きの拡大も目覚ましいものでありました。15節を見ますと、人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせています。偉大な人の影によって御利益に与るというのは、当時の迷信の類であると言われています。そのような迷信が教会に対してもなされるほど、教会で行われていたしるしと不思議な業は、影響力の大きいものでありました。また教会の働きは、場所においても拡大していきます。エルサレムの付近の町からも人々が集まってきました。集まってきた人々は、一人残らずいやしてもらいました。繰り返しになりますが、いやしとは救いを象徴的に示しています。主イエスによる救いが、エルサレムだけにはとどまらず、その周辺にも広がっていったのです。

 

 このような教会の目覚ましい成長は、人々に賞賛だけを生んだのではありません。恐れや妬みをも生み、17節以降で教会への迫害につながっていくのです。今日の御言葉は、教会が拡大していく喜びの出来事というよりも、迫害が始まるきっかけの出来事として記されています。教会の存在が、周囲の人々の反発を生んだのです。このことは、主イエスがすでに言及されていたことでもあります(ルカ12:51~53)。教会が人々にもたらすもの。それは、決して喜びや笑顔だけではありません。恐れ、当惑、妬み、また分裂をももたらすのです。それでも教会は、御言葉を宣べ伝える存在として建てられています。なぜならいくら反発をうけようとも、御言葉が救いを得させる唯一のものであることに変わりはないからです。使徒たちの手によってなされた奇跡が人々の重荷を取り去ったように、御言葉に基づく神の御支配があらゆる人々の痛みをいやし、重荷をとりさるのです。教会としての歩みにおいても、個々の信仰者としての歩みにおいても、時に思いがけない反発や困難にさらされます。しかし御言葉の力に信頼し、御言葉によってなされる神の御支配という奇跡を、提供し続ける者でありたいのです。