2019年6月30日礼拝説教「慰めへの導き」

 

聖書箇所:創世記5章1~32節

慰めへの導き

 

 5章全体にわたってアダムの系図が記されています。これに続く6章からは、ノアの箱舟の物語が記されます。その主人公であるノアの紹介が、5章の系図においてなされます。同時にこの系図は、4章までのつながりをも強く持っています。4章の後半では、カインの系図が記されました。4:19以降に記されているレメクに代表される、滅びに至る人々を象徴する系図です。それに対して神は、新たにセトから続く系図、すなわち主の御名を呼び求める人々の系図をおこされました。救いに至る人々を象徴的する系図です。この系図が、5章でより明確に示されているのです。

 まずは系図の冒頭部分を見てまいりましょう。人は神に似せて、男と女に創造されました。これにより人は、神から特別の祝福と使命を与えられました(1:28)。これが系図の最初に記され、子孫たちに受け継がれていきます。しかし、人が受け継いだのはそれだけではありませんでした。アダムが自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけることによって、セトが誕生しています(3節)。つまり人は、堕落したアダムを介して、歪んだ神の形を受け継いでいるのです。それゆえに、誰もが罪の心もって誕生し、神からの呪いである労苦の多い人生を過ごさなければなりません。人は神から離れて罪を犯したがゆえに、大地が呪われるものとなったからです。これはカインに告げられた呪いですが、29節のレメクの言葉にも反映されています。さて、この系図で特徴的なことは寿命の長さです。しかし長く生きることがすなわち幸せなのでしょうか。それは神の呪いの故に労苦の多い人生なのです。そして(エノクは例外ですが)最後には皆死ぬのです。神を礼拝しながらも、苦しみぬいて、最後には死ぬ。これがセトの系図に連なる人々の生き方なのです。同時に、神を礼拝するわたしたちの生き方でもあるのです。

 このような地味で空しく見える人生において、いったい神からどのような祝福が与えられるのでしょうか。それは4:17以降のカインの系図、特にその代表者であるレメクとの比較から見えてまいります。彼は文明の支配者であり、人生の成功者と呼ばれるような人でした。神を神として礼拝せず、自分に歯向かう者には徹底的に復讐する人でした。このレメクと、5章に記されたセトの系図の人々を、いくつかの面で比較することができます。

 まずは、カインの子孫であるレメクとエノク(5:21以下)との比較です。とちらもアダムから数えて七代目にあたります。エノクは神と共に歩んだ人でした。特徴的なのは、エノクの人生の最後です。彼の三百六十五年の生涯は、当時の感覚からすれば短命でありました。これから盛りを迎え活躍できる年に、エノクは突然いなくなったのです。それを周囲の人々が「神がエノクを取られた」と理解しました。なぜ周囲の人々がそのように理解したかといえば、エノクが神と共に歩む人であったからです。もしカインの子孫であるレメクが同じように突然いなくなったら、周りの人々の反応は「いなくなって良かった」でありましょう。周りの人々から、お前がいなくなってよかったと言われながら死ななくてはならない。これこそ滅びに至る空しい人生です。神と共に歩む人生はそうではありません。自分が世を去る時にも、周りの人々が自分をとおして神を仰ぎ見ることになるのです。それゆえに、死に至るまで意義ある人生を送ることができるのです。これが、神を礼拝する人々に与えられる豊かな祝福なのです。

 さてもう一つの面から、カインの系図の代表者であるレメクと、5章の系図と比較しましょう。それは、同じレメクという名前の人どうしの比較です。カインの系図のレメクは、人生を謳歌した人でした。これは見方を変えれば、神の呪いである人生の労苦を拒否し続ける生き方です。神様から定められた呪いから逃げるため、できるだけ苦しまないように、悩まないように、苦労を味わうことのないように、彼は歩み続けたのです。しかし彼が行き着くのは、先ほど申しました滅びであり、空しい死です。一方、5:28以降で登場するレメクは、カインの子孫であるレメクと比べると大変弱々しい人でありました。「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の労苦」を、真正面から受け止めた人でありました。彼が幸いであったのは、このような人生の労苦をただの不幸な出来事と理解しなかったことです。神の呪いによるもの、すなわち神の御心として理解したのです。そのような彼は、自らの子であるノアをとおして慰めを仰ぎ見たのです。実際に慰めを得ることができたかは定かではありませんが、6章以降、このノアが堕落した世界の中で希望の光として歩むことになります。そしてこのノアの子孫から、真の慰めである主イエスキリストが誕生いたします。神の御名を呼び神を礼拝する人々は、慰め主なる主イエスをとおして、真の慰めを期待してよいのです。

 

 わたしたちの歩みにおいて、様々な労苦が実際にございます。しかしいたずらに、労苦が降りかからないように、楽な人生を歩むことができるように求め続けることは、聖書の記す信仰者の姿ではありません。むしろそれは、カインの子孫であるレメクのなした労苦を拒否する生き方であり、滅びに向かう生き方です。聖書を信じて神を礼拝する者の強さは、労苦の中にあるときにこそあるのです。それは呪いに関わることとはいえ、愛の神の御心のなかの出来事です。そして信仰者は、どのような労苦のなかにあっても、真の救い主、主イエスキリストの十字架と復活による慰めを期待してよいのです。だからどんな労苦の中にあろうとも、どんな災難に見舞われようとも、わたしたちはキリストにある慰めを期待して、そこから立ち上がることができるのです。神を礼拝する信仰者は、弱い時にこそ強いのです(二コリント12:10)。