2019年6月23日礼拝説教「神への欺きを恐れよ」

 

聖書箇所:使徒言行録5章1~11節

神への欺きを恐れよ

 

 4章32~37節では、教会において皆が持ち物を共有し、必要に応じて分け合う様子が記されています。そのなかでもバルナバという献身的に教会に仕える人が取り上げられました。彼のような人々が大いに用いられ、教会は建てられていきました。一方で、教会はまったく問題のない理想的な場所ではないことが、今日の箇所で明らかとなります。この時代の教会にしても、今わたしたちが属している現代の教会にしても、理想だけでは片づけられない負の側面があるのです。

 今日の箇所ではアナニアとサフィラという夫婦が登場します。この夫婦は、バルナバと見た目上は同じことをいたしました。しかし彼らの問題は、目に見えないところにありました。彼らは土地を売った代金をごまかし、一部を自分のためにとっておきました。そしてそれをあたかも土地を売って得た全額であるかのように偽って、使徒たちの足元に置いたのです。「ごまかす」という言葉は、他の箇所で「盗む」という意味で用いられる言葉です(ヨシュア7:1等)。彼らの行動は、見えないところで行われました。目に見えないところにおいて、サタンの働きがあらわになるのです。

土地の代金をごまかしたことは、普通に考えれば夫婦で口裏を合わせておけば誰にも分かりません。しかし使徒ペトロは、そのことを明らかにします。これは彼に働いている聖霊の働きによります。人の目には隠されたことであっても、神の霊である聖霊にはすべてが明らかです。パウロは3節以降で、具体的にアナニアの問題点を指摘します。あなたはサタンに心を奪われた。より原文に則して訳すならば、「サタンがあなたの心を満たした」となります。教会においてすら、聖霊だけでなくサタンも働くのです。それゆえに、教会でなされることならなんでも許容されるのではありません。教会の中ですら、キリストに反するサタンの働きがあるからです。ペトロの言葉を聞きますと、アナニアは倒れて息絶えました。三時間ほどたってから、今度はアナニアの妻のサフィラがこの出来事を知らずにペトロのところにやってきます。ここでは、土地の代金をごまかすだけでなく、ひそかに示し合わせてこのことが非難されます。ペトロの言葉を聞いたサフィラは、アナニアと同じようにその場で倒れて息絶えたのでした。そして教会全体とこのことを聞いた人は皆、非常に恐れたのです。これが今日の物語の大きな流れです。

 さて今日の箇所に対しては、いくつかの疑問が昔から指摘されてきました。もっとも代表的なものは、なぜアナニアとサフィラに悔い改めの機会が与えられないのか、という疑問です。二人はペトロの言葉を聞くと、すぐに倒れて息絶えました。この二人には、悔い改める機会が全く与えられなかったのです。しかし教会の実践においては、あらゆる罪に対して悔い改めの機会が与えられるのが普通です。また別の疑問として、夫が死んで三時間も経っているのに、妻にそのことが知らされていません。教会の交わりにおいて、このようなことはあり得ないでしょう。これらのことが示しているのは、この物語が教会の実践の手本として記されているのではないということです。そうではなく、教会において許容されるべきでない行動が今日の物語において示されているのです。では、彼らの行動のいったい何が問題だったのでしょうか。ペトロが指摘していますのは、聖霊を欺いたことです。同じことが、4節の最後では神への欺きと言われています。問題は「欺き」にあるのです。彼らの行動で問題なのは、土地の代金の一部を取り分けたことではなく、それをあたかも土地の代金の全額であるかのように欺いて使徒たちの足元に置いたことです。しかもそれを夫婦で示し合わせて行いました。意図的かつ計画的に、主の霊を試したのです。このような行為を神は拒否されるのであり、教会内において許容してはならないのです。

 

 しかしなぜ彼らは、このような行為に及んだのでしょうか。それは人からの評価を高めたいという名誉欲のためでありましょう。彼らの行動は、信仰的で神に心が向いているように見えたでありましょう。しかし実際に彼らの心が向いていたのは人の評価でありました。昔も今も、周りの人々からの評価は自らの歩みに大きな影響を与えます。周りの人々から評価されれば自分のしたいことを皆が応援してくれますが、人から評価されなくなれば途端に隅に追いやられてしまうのです。それゆえに、世の中においては実際以上に自分をよく見せることが求められているように思います。教会とは、そのような圧力から解放されるところでなければなりません。アナニアとサフィラは、教会にいながらも、この圧力から解放されていませんでした。だからこそ神は、彼らを拒否されたのです。4章32節以降において、持ち物の共有して一人も貧しい者がいないというプラス面から、このような解放の場としての教会が示されました。今日の箇所においては、人からの評価を求める者が打ち砕かれるというマイナス面から、同じことが示されているのです。これらはどちらも、わたしたちが普段生きている世の中の常識の外にあることです。それゆえに教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れたのです。しかしこれは、単に怖がるだけの恐れではありません。わたしたちを真剣に神に従うことへと向かわせる恐れです。この神への恐れがある教会は、まことに人を解放する場となるのです。わたしたちは、この素晴らしい解放の場所である教会へと人々を迎え入れる役割へと召されています。そのためにわたしたちが今、なすべきことはなんでしょうか。わたしたち自身が、教会において人の評価から解放されることです。まずわたしたち自身が解放された者として、教会に集うこのときを、神を恐れつつも心から喜ぼうではありませんか。