聖書箇所:使徒言行録4章23~31節
大胆に語るために
キリスト教会への迫害が始まるなかで、人々が御言葉を大胆に語りだしました。これ以降、教会の歴史は、迫害や周囲の無理解や教会内の堕落のなかにあっても大胆に御言葉を語る人々によって築き上げられてきたといってもよいでしょう。では、わたしたちは御言葉を大胆に語ることができているのかと言われれば、自信をもって「はい」と言える人はまれではないかと思うのです。しかしその原因を、聖書に登場する人々は信仰が厚く、自分の信仰が薄いためだと安易に結論付けてはなりません。聖書に登場する人々は、信仰の偉人として描かれていないからです。むしろ信仰的に多くの欠けを抱えた人々が、なお御言葉を大胆に語ったのです。わたしたちが弱いからこそ、今日の御言葉に聞く必要があるのです。
権力者たちに尋問され釈放されたペトロとヨハネがまずしたことは、仲間たちへの報告でした。権力者たちは二人に対してなすすべなく、釈放せざるを得ませんでした。二人の報告を聞いた仲間たちは、これが神の御業によるものである悟り、心を一つにして祈りました。この祈りの内容から、教会への迫害が始まったこのときを、彼らがどのように理解していたかを知ることができます。この祈りは、天と地と海を造られた主なる神への呼びかけから始まります。天と地に海を加えて神を呼びかける箇所は、聖書のなかでもまれです。当時の人々にとっての海とは、得体のしれないもの、自らの手には負えない存在の代表でした。この祈りをしていた人々にとって海のように自らの手に負えない存在とは、教会を迫害する権力者たちでありました。しかしその権力者たちですら、神に造られた存在であり、神の御心の中にあると彼らは理解したのです。
このような理解は、わたしたちにとっても大切です。信仰者であるわたしたちが、信仰的な理由によって困難に陥ることがあります。そのような困難をもたらす存在をも、神の御心のうちにあるのです。したがって自分の都合のいいことだけを神の御業として受け入れて、都合の悪いものを安易に神の御心の外におく(例えば、サタンや悪霊のせいにする)ことには、慎重であるべきです。今日の御言葉に登場する人々も、教会に迫害の手を伸ばすような自分たちに都合の悪い権力者たちを、決してサタン呼ばわりしていません。そうではなくすべてが神の御計画の中の出来事として、この困難な状況をも受け入れたのです。彼らは聖書の御言葉に基づく現状認識から、この理解へと至りました。25節後半から26節にかけまして、二重鍵括弧で詩編2編の冒頭部分が引用されています。詩編2編は、王の任職を歌った歌です。のちにそれが、来るべき救い主を指す歌として理解されるようになりました。ここに描かれている救い主こそ主イエスである。それが、この祈りをなしている人々の確信です。その前提でこの詩編を見ますと、地上の王と指導者たちが救い主である主イエスに逆らうことが予告されています。その予告どおり、ヘロデとポンテオピラトが地上の王たちとして立ち上がり、サンヘドリンの議員たちが指導者として団結して主イエスに逆らったのです。彼らは自分の意志でこのことを行いました。しかしそれによって、結果的に詩編に記された神の御計画が実現しました。主イエスに反対した王たちや支配者たちは、決して神の御心の外にいるわけではありません。そんな彼らが、今度は自分たちに迫害の手を伸ばしています。この自分たちへの迫害も神の御計画の一部であると、彼らは詩編2編の御言葉から理解したのです。
このような理解に至った彼らは、神に何を願うのでしょうか。迫害がやむことではなく、迫害のなかでも大胆に御言葉を語ることでした。続く30節で願われている癒しや不思議な業は、あくまで語られた御言葉が受け入れられるためのものです。これらは御言葉を離れては意味がないのであり、中心にあるのは救いの御言葉です。彼らは、自らが迫害されることを受け入れていました。それも神の御計画の中にあると理解したからです。このあと実際に教会への迫害が激しさを増していきます。その結果、御言葉が地の果てにまで及んでいくのです。このような神の御計画に基づく祈りを、神は確かに聞き届けられました。集まっていた場所が揺れ動いたことがそれを証ししています。こうして彼らは大胆に神の言葉を語りだしたのです。
さて、わたしたちが神の言葉を大胆に語るためには、どうすべきでしょうか。第一に祈らなければなりません。大胆に語る場合、そこに様々な障害や困難があることが前提です。それは障害や困難をもたらす人々に対して御言葉を語ることに他なりません。そのために、祈りは必須です。加えてどう祈るかが重要です。もし障害や困難をもたらす人々がいなくなることを祈るならば、御言葉を大胆に語ることへと導かれないでしょう。なぜならそのような祈りは、わたしたちが大胆に御言葉を語るべき対象である人々がいなくなることを願うものだからです。わたしたちが祈るべきことは、みずからの困難を受け入れつつその中で大胆に御言葉を語ることです。今日の祈りで引用された詩編2編の後半(10,11節)には、主とそのメシアに逆らう王たちを含むすべての王たちへの招きが語られます。主イエス御自身が、そのような歩みをなされました。ご自分に向けられたあらゆる困難を、その頂点である十字架を、苦しみ葛藤しながらも神の御心としてその身に受けられました。こうして神に逆らう者をも招いてくださいました。わたしたちが御言葉を語る際にも、同じように困難に直面するでしょう。しかしこれらは、神の御計画と御心の中の出来事です。この御計画は、地の果てまで御言葉が広がるすばらしい結果が約束されています。だからこそ、信仰の薄く欠けの多いわたしたちであっても、大胆に御言葉を語ることができるのです。