2019年5月12日礼拝説教 「誰に従うのか」

 

聖書箇所:使徒言行録4章13~22節

誰に従うのか

 

 今日の箇所では、明らかに従うべきでない人々が登場します。従うべきではない存在は、わたしたちの周りにもたくさんあるでしょう。そのようななかで正しいお方に従うために、わたしたちは何をすべきでしょうか。今日の御言葉から教えられたいのです。

 生まれつき足の不自由だった者が主イエスの名によっていやされ、神を喜んで礼拝する者へと変えられました。ペトロはこのことをとおして、主イエスの復活を宣べ伝えました。それにいらだちを募らせた祭司たちらが、ペトロとヨハネを捕らえ、サンヘドリンという議会において二人を尋問しました。このときペトロは聖霊に満たされて、議員たちに返答しました。そのために議員たちが驚いたと13節に記されています。尋問している側の議員たちの方が、尋問されている二人の態度を見て恐れたのです。この点を含めて、13節と14節においては、尋問されるペトロとヨハネと、尋問する議員たちがいくつかの点で対比されています。ペトロとヨハネは無学で普通の人でありました。尋問をしてる議員たちとは経歴が全く違うのです。そんな彼らが、聖書の専門家と呼ばれるような人々に堂々と聖書について論証しているのです。それゆえに、尋問する側は驚き、また恐れを抱いたのです。議員たちはペトロとヨハネを尋問するなかで、彼らが主イエスと一緒にいた者であるということが分かってきました。この議員たちは、主イエスを拒否して十字架にかけた人々です。自分たちの正当性を保つために、ペトロとヨハネが宣べ伝えていることが間違っていることを示したかったのです。しかし、実際に足をいやしていただいた人がそばに立っており、言い返すことができません。人をいやして救いに導いたペトロとヨハネと、聖書の学的な知識を持ちながら人を救う力を持たない議員たちが、ここでも鋭く対比されています。

 議員たちはペトロとヨハネを議場から退出させ、互いに相談いたします。彼らは知識や権力を持っていた人々です。しかし皆に知れ渡っているしるしを否定することは、彼らであってもできません。21節以降を見ますと、このしるしを見た民衆が非常に喜んでいたことがわかります。四十歳を過ぎるまで歩けなかった男が、いやされて救われたのです。これが神の救いの御業であることを皆が理解し、神を賛美したのです。これに対して議員たちは、神の救いの御業を見ながらもそれを喜ぶことができません。そんな彼らも、民衆の目は気にしていました。そんな彼らができることは、これ以上このこと民衆の間に広まらないようにすることぐらいしかありません。そのために議員たちはペトロとヨハネを脅しました。この脅し文句から、彼らがいったい何を恐れているかが明らかになります。議員たちはこう言いあいます。

「今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」

そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令しました。議員たちが恐れていたのは、二人が行った奇跡ではなく救いをもたらすイエスの名です。

 この脅しに対するペトロの返答が19節です。神に従うか、議員たちに代表されるような人間に従うか、二者択一が迫られているかのような言葉です。しかしこのペトロの答えが本当に、神か人かという二者択一を意味していたかというと、必ずしもそうは言えません。なぜなら議員たちも、聖書の神を信じる者たちだからです。彼らはおそらく神の御名によって、神の権威によって、それ以上主イエスの名によって語り教えるなと命じたのです。しかし神の御名によって彼らが命じた動機は自己保身のためです。彼らには人を救う力はありません。一方ペトロには、復活された主イエスをとおして直接神の御言葉が示されています。そしてそれによって実際に、人々が救われています。こうして明確に示された神の救いの御言葉を差し置いてまで、あなたがたの言葉に従うことが神の御前に正しいことか、考えてください。これがペトロの返答でありました。

 ペトロは、数ある選択肢の中から自らの判断で神に従うことを選んだのではありません。そうせざるを得なかったのです。彼の語ることは、彼自身が見聞きしたことだからです。ペトロが見聞きしたこととは、彼自身が実際に主イエスの弟子として歩んできた歩みです。その歩みの中で、彼らは主イエスの救いを直接見聞きし、体験しました。その歩みのなかで、主イエスのための働きへと召されました。そして実際に人々が救われたのです。この一つ一つの体験こそ、彼が見たことと聞いたことです。この救いの御業を目の当たりにしては、主イエスに従わない選択をすることができないのです。

 

 誰に従うのか。もちろんその答えは、神であり主イエスです。しかしわたしたちは、自らの判断力でその選択をすることはできません。神に従わざるを得ない、従わずにはいられない。その強制力のなかで、わたしたちは神に従うことができるのです。ではわたしたちに神に従う強制力をもたらすものとは何でしょうか。ペトロと同じようにわたしたち自身も、主イエスの御言葉に触れること。それによる神の救いの御業を当事者として体験することです。これは自分の罪が示される体験でもあります。ペトロも主イエスを三度も知らないと言い、自らの弱さと罪が示されました。それでもなお救われて、神様から召されているのです。このことが聖書の御言葉に示されています。ですからこの聖書の御言葉にある救いの出来事を、わたしたち自らが実際の生活の中で体験し続けることこそ、神に従う力になるのです。フィールドの外から傍観する観客としてではなく、神の救いの当事者として、ここにいるお一人お一人に歩んでいただきたい。そのことをとおしてわたしたちは、神に従うことへと押し出されるのです。