2019年5月5日礼拝説教 「救いを得させる名は一つ」

 

聖書箇所:使徒言行録4章1~12節

救いを得させる名は一つ

 

 3章においてペトロは、生まれつき足の不自由な男をイエスの名によって癒しました。その奇跡を見た人々が、神殿の境内にいたペトロのところに集まって来ました。ペトロが彼らに悔い改めを促す説教をしました。この説教に根拠を与えているのが、主イエスが復活されたという事実です。主イエスの復活を信じ続けるかどうかが、キリスト教か立つか倒れるかに関わるのです。このキリストの復活の教えにいらだつ人々がいました。祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々です。サドカイ派とは、祭司やそれを支持する人々に受け入れられていたユダヤ教の一派であり、死者の復活を信じていませんでした。現実主義ユダヤ教と言えるでしょう。それゆえに、現実において権力をふるう人々に受け入れられていたのかもしれません。そのような人々が、キリストの復活を宣べ伝えるペトロを投獄します。後にキリスト教会の直面する困難を示しているでありましょう。しかし同時に、4節では別の現実をも示されています。ペトロの説教によって多くの人々が回心したのです。彼らの目の前でペトロとヨハネが投獄されたにもかかわらず、多くの人々が回心しました。御言葉を宣べ伝える者が妨げを受けたとしても、御言葉をとおして人を救う聖霊の働きは決して妨げられることはないのです。

 さて、投獄されたペトロとヨハネはどうなったでしょうか。5節と6節を見ますと、翌日には様々な人々がエルサレムに集まったことが記されています。議員、長老、律法学者たち。その中には大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族がいました。時の権力者たちが集められ、サンヘドリンという会議が開かれたことを示しています。ここに挙げられた人々の一部は、主イエスに真っ向から反対し、主イエスを十字架につけるために熱心に動いた人々として福音書に名前が出てきます。さらにサンヘドリン自体が、主イエスを死刑に処すことを決めた会議です。主イエスを無き者にしようとした人々が、今度はペトロとヨハネを、さらにいうならば二人に代表されるキリスト教会を、黙らせようとしたわけです。彼らはペトロとヨハネに対して「何の権威によって、だれの名によって」と尋問します。彼らの問いかけは、純粋な質問でないことは明らかです。人々を教えて、救いに導くの権威や名は、権力者である自分たちが持っているということを前提にして、議員たちはペトロとヨハネを尋問したのです。

 この尋問に対してペトロは、聖霊に満たされて10節の返答をいたします。10節は和訳のためにもともとの語順が入れ替わってしまっています。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい」という発言の次に語られた言葉は「ナザレの人、イエス・キリストの名によって」です。尋問に対する回答をペトロは最初にはっきりさせています。この方はどうゆう方かというと、あなたがたが十字架にかけて殺した方であり、また神が死者の中から復活された方なのです。この方によって、このひとは癒されて皆さんのまえで立っているのです。これが10節でペトロが語った本来の順序です。人々を教えて救いに導くの権威や名は自分たちが持っていると考えていたサンヘドリンの議員たちに対して、「その権威と名は、主イエスキリストにある」とペトロは反論しました。その根拠が十字架と復活なのです。このことが11節においては『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』という詩編118編の引用によって示されています。「隅の親石」とは、家の二つの壁を結び合わせるために重要な役割を担う石です。人間の目から見て価値のない物として捨てられた石が、神の御計画の中心をなすのです。この石こそ、主イエスキリストです。そのうえで12節で、この名によってのみ救いが与えられるとペトロは主張します。もし主イエスだけでなくサンヘドリンの議員たちにも人を救う権威が与えられているならば、ペトロは危険を冒してまで彼らに反論する必要はありません。しかし主イエスの名にしか救いはないので、彼は主イエスの復活を根拠に反論しなければならなかったのです。救いを得させる名は一つ。このことを主張するがゆえに、教会は多くの困難や無理解に直面します。投獄されて尋問を受けたペトロとヨハネがそのことを示しています。

 ではどのような人々が、主イエスが唯一の救い主であることを否定しようとするのでしょうか。それは自らが救い主であるかのように振る舞う人々によってです。人は誰しも、自分が救い主になりたいのです。わたしたち自身も、そうではないでしょうか。自分が関わって教会に集う人がいたならば、自分がその人を救いに導いたと思いたいのです。しかしこの考えこそが、主イエスのみが救い主であるという聖書の教えと対立するのです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」という聖書の言葉を受け入れるということは、自分が救い主ではなく救われた者であることを認めることに他なりません。このことは、キリスト教がキリスト教であるために必要な「主イエスの復活」を信じることにおいても当てはまります。キリスト教の信仰者は、自分のために主イエスが復活されたことを信じています。これは、自分自身が主イエスを殺したということを認めることと一体です。主イエスの復活を信じるということは、自分がどこまでも罪人であることと、それでもなお恵みによって救われたことを認めることなのです。自分は救い主ではなく救われた人間である。そのように認めることは大変つらいことです。自分の誇りの一切を捨てることだからです。しかし徹底的にこの立場に立つときにこそ、生活のすべてを救いの恵みとして受け取ることができるのです。わたしたちは救い主としてではなく救われた者として、あらゆることを恵みのうちになしてまいりましょう。