2019年4月28日礼拝説教 「殺す者の命のために」

 

聖書箇所:創世記4章1~16節

殺す者の命のために

 

 今日の物語の焦点は、特にカインに向けられています。カインと違い、アベルには繰り返し「弟」という肩書が付けられています。アベルはあくまでも、カインの弟として登場しています。カインを産んだときにのみ、母エバは「わたしは主によって男子を得た」という喜びの言葉が語られていることからも、この話の注目がカインに向けられていることが示唆されています。

 さて二人は成長しました。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となりました。これら二つの仕事はいずれも、創世記が第一に想定している読者である古代イスラエルの人々にとって大変身近なものでした。ですから創世記は、読者がカインとアベルを自分のことと重ね合わせて捉えることができるように書かれています。カインとアベルは、この物語を読んでいるあなたの分身であると創世記は語り掛けるのです。そのカインとアベルが、主に献げ物を携えてやってきます。これは礼拝の場面です。主はアベルとその献げ物には目を留められますが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。この違いは、献げ物の良し悪しではなく、礼拝を捧げる者自身の姿勢に原因があるのです。この物語で何よりも問われるのは、わたしたちの礼拝への姿勢なのです。いまわたしたちは、カインかアベルか、どちらの姿で礼拝を捧げているでしょうか。

 二人の礼拝への姿勢は、献げ物の選択に表れています。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってまいります。それは初任給で親やお世話になった人にごちそうしたりプレゼントをするのに似ています。それは感謝のしるしであり、見返りを求める行動ではありません。子供のように純粋に、ただ神様に感謝の気持ちをあらわそうとしたアベルと彼の献げ物に、神は目を留められたのです。ではカインはどうだったのでしょうか。カインは土の実りを持ってきたとあります。しかし初物ではありませんでした。献げ物が初物か否かが問題ではありません。カイン自身が大きな問題を抱えているのです。おそらく彼なりに、よく選んで良い物を持ってきたと思うのです。だからこそ神がアベルにだけ目を留められたことを、カインは激しく怒ったのです。神様に一生懸命仕えているのに評価されない。しかし自分の隣にいる兄弟が神に目を留められて、満たされ喜んでいる。そこに生じる不公平感が、カインの怒りの根底にあります。カインがこれほどまでに不公平感を抱いているのは、見返りを求めて献げ物を捧げたためです。これだけ良い物を捧げたのだから、自分を特別視してほしい。自分の思い通りに、神に動いてほしい。そんなカインに、神は目を留められなかったのです。ただし神は、カインの献げ物を拒否されたわけではありません。神はカインにも愛のまなざしを注がれていました。だからこそ、顔を伏せたカインに神はすぐに気づかれ、語りかけられたのです(6節)。

 カイン自身、自分の怒りが神の御前に正しくないことを知っていました。良心の呵責を感じていたのです。そうでなければ、神に堂々と弁明できるはずなのです。問題なのは、自分自身に罪から生じる良心の呵責があるときです。自分でも神の御前に正しくないと分かる罪、これこそわたしたちが支配せねばならない罪です。しかしカインは、良心の呵責を感じつつも悔い改めませんでした。かえって自分に都合の悪い存在であったアベルを、共に神を礼拝する兄弟であるにも関わらず殺したのです。彼はアベルをわざわざ野原に連れ出して殺しました。立派な計画殺人です。その後の神の問いかけに対しても「知りません」と答えます。そのような彼に対して、神の裁きが下ります。意図的な殺人者に対する神の裁きは厳格です。少し後の創世記9:5で神は「人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する」と語られています。それゆえに古代イスラエルにおいては、意図的に殺された者の身内の一人が血の報復者となり、殺人者に報復することが許されていました。アベルの血の報復者となったのは神でした(10節)。それゆえにカインは、どこに逃れようとも安心することはできません。いつ誰に殺されてもおかしくない。そんな状況のなかでカインは神を恐れ、神から遠く離れて生きなければならなくなりました。カインだけではありません。人は皆、罪のゆえに命の危険にさらされおびえながら、神から遠く離れて生きざるを得なくなりました。人にもたらされるあらゆる悲惨の根が、ここにあるのです。しかし神は、カインの命を危険にさらされませんでした。カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、彼にしるしを付けられました。どれほどカインが神から離れて生きようとも、神はカインの命を守られるのです。カインは、わたしたち自身の分身ですから、同じことがわたしたちの罪に対してもなされるのです。驚くべき神の愛が、ここに示されています。

 この神の愛を語るために、一つ解決しなければならないことがあります。「人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する」ほどに厳格な神の裁きは、棚上げになったのでしょうか。決してそうではありません。神はわたしたちの流した血の報復を、神であると同時に人間でもあられる主イエスキリストになされました。十字架上で流された主イエスの血は、わたしたちの流した血に対する神の報復に他なりません。このことを信じることができるならば、もはや神はわたしたちに対する血の報復者ではありえません。もう報復は終わっているからです。ですから主イエスがわたしの救い主であると信じる者にとって、神は罪の報復者ではなく、自らの命を大切に守られるお方なのです。この喜びの事実を知るときにわたしたちは、神に対して不平不満を漏らし続けたカインではなく、子供のように純粋にただ神を喜んで礼拝したアベルとして礼拝を捧げることができるのです。