2019年4月14日受難週礼拝説教 「傷によって癒される」

 

聖書箇所:ルカによる福音書24章44~46節

     イザヤ書53章1~5節

傷によって癒される

 

 ルカ福音書の御言葉において、主イエスは聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開かれました。弟子たちが、聖書を分かるようにされたということでありましょう。そのうえで主イエスがまず言われたのが、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」という言葉です。「苦しみを受け」とは十字架を指しています。ですから、主イエスの十字架と復活の理解が、聖書全体の理解と深い結びつきがあるのです。ですから、今日この受難週礼拝においては「メシアは苦しみを受け」、来週のイースターでは「三日目に死者の中から復活する」という部分に着目し、これらの根拠を提供する旧約聖書の御言葉に聞いてまいります。受難週の今日は「メシアは苦しみを受け」です。主イエスはこのことをイザヤ書53章、あるいはその前後の御言葉を根拠として語られています。通常はクリスマスに読まれることの多い御言葉です。ここには主の僕、すなわち主なる神様の僕について記されています。この僕が主イエスであるとわたしたちは理解しています。しかしこの御言葉が語られたそもそもの意味や背景について少し丁寧に目を向けてまいりたいのです。

 この箇所は預言者イザヤが語った預言、すなわち彼が取りついだ神の御言葉です。この御言葉を聞いた人々はどのような状況にあったのでしょうか。52章の冒頭には「主は王となられる」とタイトルがついています。「なられる」とは未来のことですから、この預言が語られている時点での人々の支配者は神ではあないのです。この支配者は、この預言を聞いた人々をただ同然の価値のない存在と見なしていたようです(52:3)。そんな扱いを受けていた人々に「主が王となられる」という預言が語られました。人々にとって、これは希望の預言でありました。では主なる神は、どのようにして王となられるのでしょうか。それは主の僕、主に忠実に従う者が栄え、高く挙げられることによって実現する支配です(52:13以下)。主の僕が神と人々との間に入ることによる支配です。間に入るといっても、主の僕は主なる神の御意志をそのまま行いますので、それは主なる神の直接支配と変わりません。主の僕が人々を支配し、結果的に主なる神が王となられるという預言が実現していくのです。では主の僕の支配は、一体どのようなものでしょうか。それを示すのが53章です。その冒頭の1節では、主の僕の支配が人の常識を超えたものであることが示唆されています。通常、人はどのように他の人々を支配するでしょうか。皆から尊敬されることによって支配を確立していきます。あるいは力が強く立派な人が支配者となります。しかし神の御支配を実現するために立てられる主の僕は違うのです。彼は若枝にたとえられています。若枝とは乳飲み子とも訳される言葉で、非常に弱く小さな存在です。その若枝が、一見希望がないように見える場所にほんの小さな希望として育つのです。しかも彼には見るべき面影、輝かしい風格、好ましい容姿がありません。見栄えに限らず、人々を引き付けるような魅力を持ち合わせていないのです。3節を見ますと、実際に彼が人々に軽蔑され、見捨てられていることが分かります。そして痛みと病という、人が人生を歩む上で味わうことになる苦しみを、主の僕は同じように味わうのです。主の僕の支配とは、立派な人が上に立って治める支配ではありません。下からの支配なのです。

 主の僕を軽蔑し、無視していたのは誰でしょうか。それは「わたしたち」だと記されています。この箇所の「わたしたち」が指しているのは、神ではない者に支配され苦しい立場にに置かれていた人々です。悲惨の中にある人々が、自分たちよりも酷い状況にある主の僕を軽蔑し無視したのです。悲惨な状況に置かれた時、自分よりも下の人間を見ますと安心します。ここで「わたしたち」と記されている人々も同じなのです。彼らは、主の僕が神の手にかかり、打たれたから苦しんでいるのだ、と思いました。この思いの裏には、自分たちはまだ神の手にかかっておらず、打たれるほどひどいことはしていないという前提があります。しかし5節を見ますとそうではないのです。彼らは実際に神に背き、その咎を負うべき存在であるのです。それを、支配者である主の僕が代わりに負いました。それによって神ではないものに支配されて苦しんでいる人々に平和が与えられ、癒されました。このようにして、主の僕が王となり、神の御支配が実現していくのです。これがこの預言の語る神の御計画です。

 

 この御計画が、主イエスの十字架によって実現しました。主イエスがわたしたちの背きや咎を負って十字架にかかられた。それゆえに、今を生きるわたしたちにも平和と癒しが与えられました。しかしそれでこの預言は完全に成就したのでしょうか。どうもそうではないように思うのです。ブルッゲマンという旧約学者によりますと、ユダヤ教の伝統において主の僕はイスラエルを指すと理解されてきたようです。イスラエルとは神の選びの民の群れであり、今の時代においては教会に対応します。ですから主の僕とは、主イエスを指すと同時に、教会の姿をも指すのです。思えば教会には人々を引き付けるような見るべき面影も、輝かしい風格も、好ましい容姿もないのです。主の僕とは人々から蔑みを受けながらもその人々の痛みや病を負う存在です。ですから教会も、人々から軽蔑され見捨てられようとも彼らの痛みや病を担うよう召されているのです。このようにして主なる神が、この世界の王となられるのです。ですから誰かの傷を癒すために、わたしたちは主の僕である教会として、誰かの痛みや病を負う者であろうではありませんか。主イエスキリストが、わたしたちの痛みと病を負ってくださったのですから。