2019年3月17日礼拝説教 「自分の力や信心ではなく」

 

聖書箇所:使徒言行録3章11~16節

自分の力や信心ではなく

 

 3章の冒頭で足の不自由な男が癒された際、主イエスの名を発したのはペトロでした。ペトロの発した主イエスの名によって、この男は躍り上がって立ち、歩きだしました。この奇跡の出来事を見た民衆は大変驚きまして、ソロモンの回廊にいるペトロたちの方へ一斉に集まって来ました。そこは広いスペースに面しており、多くの人々が集まることができました。ペトロが「イスラエルの人たち」と呼びかけていますので、そこに集まったのは異邦人ではなくイスラエル人たちであったことが分かります。

 驚き集まったイスラエルの人たちを見て語ったペトロの説教が、12節以降に記されてまいります。まずペトロは、2つの疑問を投げかけます。なぜ驚くのかとペトロが言うのはよくわかります。民衆は異常なまでに驚いていたからです。それに加えてペトロは、なぜ見つめるのかと問います。見つめるとは、3章4節にあります「じっと見て」と同じ言葉です。ここではペトロが見る側でした。今回はペトロが見られる側になりました。ペトロも民衆も見る行動は同じですが、その動機は大きく異なっていました。ペトロが足の不自由な男を見たのは、憐みによるものでした。ペトロは弱く小さい者に目を向けたのです。一方で人々がペトロを見たのは、ペトロの行った不思議な業のゆえでした。彼らはそれをペトロ自身の力と信心によるものだと理解しました。そんな立派なペトロ先生を、彼らは特別視したわけです。立派な人を特別視することは、一般社会においては当たり前のことです。そのように、人々は奇跡を起こしたペトロを立派な人だと判断し、彼に一目置いたわけです。それに対してペトロは、「なぜ」という疑問の言葉を投げかけます。この「なぜ」は疑問ではなく、むしろ否定の意味です。ここで足の不自由な男を立たせた癒しの業は、ペトロの力や信心によるものではないのです。そして13節からペトロは、民衆の目をキリストへと向けさせます。

 13節ではまずアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神と呼びかけられています。これが旧約聖書に示された神を指していることは言うまでもありません。聴衆はイスラエルの人々です。ですから、ペトロがここで語る神は、聴衆が信じている神でもあるのです。聴衆も信じ重んじている神が、主イエスに栄光を与えました。この主イエスを、あろうことが神を信じているイスラエルの人々が拒んだのです。大変深刻な事態です。彼らが主イエスを拒んだ状況が語られていきます。ピラトが釈放しようと決めていた罪なきお方を、彼らはその面前で拒みました。そのために、人殺しの男を赦すように求めることまでしました。人殺しは、聖書全体にわたって神の敵として挙げられます。神から遣わされた方を拒み、神の敵である殺人者を求める。徹底的に神の御心に反して行動し、命の導き手である方を殺したのです。徹底的な命軽視の姿も見えてまいります。これは神を知らない人々が行った行為ではありません。神を信じているイスラエルの人々が行った行動です。それゆえに事態はより深刻なのです。しかしペトロの説教は、罪を指摘して終わるのではありません。この殺人の業を乗りこえて、神は主イエスを死者の中から復活させられました。命を殺す人の罪に、神が勝利された。これが主イエスの復活です。ペトロは、このことの証人です。そして主イエスの復活を証しする業の一つとして、生まれながら足の不自由であった男が立ったのです。足の不自由な男が癒されて立ったことの先に主イエスの復活を見なければ、この癒しの物語は意味を持ちません。「足の不自由な男が立ったこと」と「主イエスの復活」をつなぐのは、主イエスの名です。復活された主イエスの御名がこの人を強くし、立たせたのです。ギリシャ語で「復活する」と「立つ」は同じ言葉です。主イエスの名によってこの人が立ったことによって、主イエスが復活されたことが示されたのです。ただし、主イエスの名は呪文の言葉ではありません。主イエスの名は、その名を信じる信仰によって力を発揮するのです。ですから16節の最後で「イエスによる信仰が、・・この人を完全にいやした」と言われています。この文を直訳すると「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前で、この人に、完全さを与えた」となります。彼は神の御前に完全な者とされたのです。それを与えたのは、イエスによる信仰、イエスをとおして与えられる信仰です。では足の不自由な男は、自らの足が癒されたときに主イエスへの信仰を持っていたのでしょうか。明確な主イエスへの信仰は持っていなかったでしょう。しかし、おそらく彼はペトロとヨハネが主イエスを信じる者であるということは知っていたでありましょう。二人はそのころすでに人々から好意を寄せられ、一目置かれる存在だったからです。ですから足の不自由な男がペトロとヨハネを見つめたとき、「主イエスを信じるこの人たちなら、自分になにか特別なものをくれるかもしれない」という思いを持っていたでありましょう。これが、この時の彼の信仰でありました。かすかな信仰かもしれません。しかしこの不完全でかすかな信仰が、彼を立たせ、彼を完全な者へと変えたのです。それによって、主イエスが死から立ち上がられたお方であることが人々に証しされたのです。

 

 わたしたちが自らに与えられた信仰を省みるとき、それは大変弱く心もとないものかもしれません。しかしそのような弱いわたしたちが、今こうして教会に集い、御言葉によって立たされ続けています。これこそ奇跡です。この奇跡が、主イエスが復活されたことの証しとなるのです。わたしたちは、自らの力や信心ではなく、主イエスの名による神の力によって立たされて続けています。この驚きの事実に立ち続けることが、主イエスキリストの復活の証人として生きることなのです。