2019年3月3日礼拝説教 「主は加え、一つにされる」

 

聖書箇所:使徒言行録2章43~47節

主は加え、一つにされる

 

 今日の箇所において、人々は大いに恐れています。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたからです。それは人々の知識では理解できないこと、それゆえにこの後何が起こるか予想もできないことでした。使徒たちが行っていた不思議な業としるしとはいったいどのようなものだったのでしょうか。14章3節を見ますと、これらは主が彼らの手を通してなされたことであり、神の御業であることが分かります。また、これらは恵みの言葉を証しするためになされたことも分かります。使徒たちがなした不思議な業としるしは、どこまでも御言葉を証しするためになされたものです。もちろん、御言葉を証しするために奇跡的なこともしたでありましょう。実際に3章の冒頭には、そのような癒しの記事が記されています。しかしそれは、恵みの御言葉を証しするためなのです。これらの証しによって、御言葉を受け入れた人は、御言葉に従った生活を始めました。その証拠に、43節の前後には使徒たちの言葉を受け入れた人々の教会生活の様子が記されています。使徒たちの不思議な業としるしによって、御言葉に生きはじめる人々がどんどん起こされていきました。それは、これまで起こったことのない出来事でした。人によるのではない異質な力がそこに働いていることを、人々は感じたのです。それゆえに、すべての人に恐れが生じたのです。

 御言葉を受け入れた人々の生活の様子が、44節以降に記されています。まず、信者たちがすべての物を共有したあります。これは所有物を持つことが否定されているのではありません。自分の所有物であっても、兄弟姉妹の益のために喜んで提供したということを意味します。そして教会の中に必要としている兄弟姉妹がいたならば、自らの持ち物を売って分け合ったのです。それは、信者たちが皆一つとなっていたからです。苦しむ兄弟がいたならば自分をケアするようにその兄弟をケアしたのです。これは決して、慈善活動ではありません。苦しむ人があれば手を差し伸べずにはいられないのです。皆が一つだからです。それが教会の交わりなのです。46節からは信仰生活の面からの信者の生活が記されています。彼らは毎日ひたすら心を一つにして神殿に参っていました。初期のキリスト教に対して向けられた批判の一つが、キリスト教徒がユダヤ教の伝統、すなわち旧約聖書を廃棄しているというものでした。しかしこの神殿参りの記載から、彼らが決して旧約聖書を廃棄する立場ではないことが示されます。むしろ御言葉を受け入れた彼らこそが、旧約聖書の伝統を重んじ、心を一つにして神殿参りをしていたのです。彼らはまた、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していました。この当時、今日あるような教会堂はありません。神殿以外で信者が集まるのは、信者の家しかないのです。ですから「家ごとに集まる」とは、今で言うならば「教会ごとに集まる」という意味に近いでしょう。したがってそれに続く、パン裂き、食事、賛美は、主日の礼拝を示していると考えられます。パンを裂いたのは、聖餐式を意図しているでありましょう。それに続いて、喜びと真心をもって一緒に食事をしました。心から食事の恵みに与っていたのです。わたしたちが毎週している昼食会のようなものでしょう。この食事は、礼拝の一部でした。富んでいる者も貧しい者も一緒になってこの食卓に与り、そして神を賛美する。これがこの当時の礼拝の姿です。ゆえに食事は教会における礼拝の交わりの一部です。その中心が、パンとぶどう酒に与る聖餐式です。共に食べることをとおして、共に主イエスの恵みに与って一つであるということを、主日ごとに確認したのです。わたしたちも今日この後に聖餐の恵みに与り、このことを確認するのです。そして一つとされた喜びの内に、神を賛美するのです。

 このような信者たちの信仰生活は、民衆全体から好意を寄せられるものでした。冒頭の43節においては、すべての人が恐れていました。しかし彼らはいたずらに怖がっていたわけではないのです。信者たちの生活を見て、「あの人たちの生き方って、何かいいね」と感じたのです。このことが、初代教会が地の果てにまで広まっていく原動力となりました。教会に集う人々が周囲の人々から好意を寄せられることをとおして、教会に加えられる人々が日々新たに起こされたのです。ですからわたしたちも、周りの人々から好意を持たれることによって、主イエスキリストの恵みを伝えていくのです。

 

 「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。この御言葉にも大切なことが記されています。相手が主イエスを信じて救われることは、必ずしも伝道するうえでのゴールではありません。その人が教会に加わえられ、教会の交わりに与って一つとされることがゴールです。ですからまずわたしたちが、教会生活によって恵みを受けて一つとならないことには、伝道はなしえないのです。そして何よりも大切なことは、教会に救われる人々を加えて一つにされるのは主なる神だということです。これだけではありません。使徒たちに不思議な業としるしをなさせたのも、主なる神御自身であられました。このことをとおして御言葉に生きる人々が起こされましたが、これも主の御業です。さらには、そこに救われた人々を日々加えられるのも主の御業なのです。一つ一つのことをとおして、主の御業が現われる。それが教会です。ですから教会において大切なことは、「わたしたちが何をするか」ではなく「神が何をしてくださるか」です。この神の御業は、わたしたちが共に聖餐の恵みに与る教会の交わりをとおして明らかとなり、実現します。このようにして示された神の御業によって、主は救われる人々を日々仲間に加え、一つとされるのです。わたしたちが教会の交わりに生きることをとおして、神の救いの御業が世に示されるのです。