2019年2月24日礼拝説教 「孤独は人にそぐわない」

 

聖書箇所:創世記2章15~25節

孤独は人にそぐわない

 

 2章4節からは、天地創造の物語を“人”にフォーカスを当てて描き出しています。主なる神は、エデンの園を造られました。素晴らしい場所として造られました。一方で、その園は管理され発展していくことを意図して造られました。その任務を担うために、人は創造されました。このことが15節に記されています。ここには人の目的として、耕すことと守ることが挙げられています。ウェストミンスター小教理問答の問1で、人の主な目的は「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」と教えられています。これらは耕し守るといった行動をとおして、すなわち具体的に世で生きることによって達成されるのです。「耕す」とは、もっと広い意味で働くこと全般をも指す言葉です。またこの言葉の名詞系は、しもべ、あるいは仕え人を意味します。ですから単に農作業というだけでなく、仕えて働くこと全般が人の目的と言えるでしょう。続いて「守る」という言葉は、保護するという意味だけでなく約束を守る、掟を守るという意味でも用いられます。ですからただエデンの園を物理的に守るだけではなく、神様の御命令を守って生きることが人の目的として意図されているのです。

 16節で主なる神は、人が働くことができるように園の木から取って食べよと命じられます。これは、人が目的に沿って生きることができるように神が準備してくださったものです。食べ物だけではありません。この後与えられる助け手を含め、あらゆる必要が神によって満たされます。このような神のお膳立てがあって初めて、人は目的を果たすことができるのです。神は人のために必要なものすべてを備えてくださるのです。それとともに、神は人に対して「善悪の知識の木から、決して食べてはならない」との戒めを命じられました。必ず死ぬとは、直訳すると「死にに死ぬ」「死を死ぬ」という死を強調する言い方です。神が食べてはならないと命じた以上、この実を食べることは神の御命令に背くことになります。それは人の目的からの逸脱であり、神の御前に生きる価値を失うことになるのです。

 エデンの園に置かれた人に対して、主なる神は「人が独りでいるのは良くない」と言われます。天地を創造し始めて以来、神は繰り返し「これは良い」と世界をほめ続けてこられました。しかしここで初めて「良くない」と言われます。人が独りでいることは、神の創造の秩序と目的にそぐわないのです。これは一人がだめで二人以上ならよいというような、人数の問題ではありません。周りと隔てられ、関係が切れて孤独の状態が良くないのです。それゆえに、彼に合う助ける者が必要なのです。彼に合うとは、気が合うという意味ではなく、向かい合うという意味です。向かい合って一緒に働く助け手が、人には必要なのです。このような助け手である他者との関係のなかに生きてこそ、人は神の目的に沿って生きることができるのです。人が助け手を見つけるために、主なる神は獣や鳥などを造られました。人はそれらを名付けていきました。旧約聖書におきまして、名付けるとは名付けた者が名付けられた者を支配することを意味します。人は動物を管理し支配する立場にいるのです。そして支配対象となるような動物たちの中から、人は自分に合う助け手を見つけることができませんでした。助け手は向かい合う存在です。上下関係ではなく隣り合う関係でなければならないのです。そこで主なる神は、人を深い眠りに落とされました。そして人のあばら骨の一部を抜き取り、そこから女を造り上げられました。この表現は、医学的な意味で語られているのではありません。人が深く眠っていますので、詳細は神しか知りません。ともかく、人から抜き取られたあばら骨から女が造り上げられたのです。聖書において、男と女をいたずらに同じ存在として描いてはいません。男である人がいて、彼に合う助け手として女は造り上げられたのであり、両者には区別があります。ただしここにおいて、男女の上下関係を示す意図は一切ありません。人は、自分より下の支配対象から助け手を見つけることはできないのです。また助け手という言葉は、神の助けをも意味する言葉です。助け手という言葉は、決して上下関係を意味していないのです。

 

 互いに違う存在でありながら、お互いに向かい合い、助け合いながらて歩む。これが聖書の示す男女の関係です。その最たるものは結婚関係です。その親しさは、二人は一体と言われるほどのものです。この深い関係のゆえに、裸であっても恥ずかしがらなかったのです。これは、すべてをさらけ出しても互いに落ち着いていられる関係だということです。お互いがありのままで、落ち着いていられる関係。それほどまでに満ち足りた関係。これが神がお定めになった男女の結婚関係なのです。それゆえに夫婦の関係は、神聖なものとして重んじられるのです。この事実は、結婚している方だけに関係するのではなく、すべての兄弟姉妹に関係します。なぜなら新約聖書において、救われた者と神との関係が夫婦関係に例えられているからです(一コリント6:17)。救われたわたしたちは、夫婦関係に例えられるほど神との親しい関係に入れられたのです。しかしわたしたちが自らを振り返るとき、ありのままの裸の姿で神の御前に出て恥ずかしがらずにいられるでしょうか。「はい」と言うことは、とてもできません。多くの罪があるからです。神の御前には、恥ずかしいことだらけです。しかしどれほど罪があろうとも、神はわたしたちを夫婦関係のような親しい関係に受け入れてくださいます。キリストの十字架の贖いがあるからです。この恵みに与ったわたしたちは、夫である神に仕えて働き、神の戒めを守る歩みを始めるのです。これこそ神が人を造られた目的です。夫婦関係のような関係で神と結ばれることで、人は神が創造された本来の姿へと回復されるのです。