2019年2月3日礼拝説教 「言葉の壁を超えて」

 

聖書箇所:使徒言行録2章1~13節

言葉の壁を超えて

 

 本日は、使徒言行録2章にあります聖霊が降る場面、ペンテコステについて見てまいりましょう。2章の冒頭には、ことが起こった時期について記されています。それは五旬祭のときでした。五旬祭は、過越祭から五十日目にお祝いする祭りです。この五旬祭は、出エジプト記やレビ記などでは七週祭とも呼ばれていまして、小麦の収穫をお祝いして主にお捧げするお祭りでした。それ以上にこのお祭りは、シナイ山において神様から律法が与えられたことを覚えるものでした。出エジプトを果たしたイスラエルの民が五十日後に、シナイ山に到着しそこで律法が与えられました。これが過越祭から五十日目に五旬祭を祝う理由です。なお、主イエスキリストの十字架は過越の犠牲の成就として起こりました。そこから五十日後の五旬祭の日にペンテコステがあったと記されているわけですから、この記事を律法の授与の完成形として起こったこととして伝えようとしているのです。

 この五旬祭の日に、一同が一つになって集まっていました。そのときに聖霊が降る様子が2節~4節に記されています。風とは、神の霊の象徴として旧約聖書の時代から用いられています。代表的な記事は、エゼキエル書37章です。また炎は、神の力の象徴です。ルカ3:16では洗礼者ヨハネが「来るべき方は聖霊と火であなたたちに洗礼を授ける」と語っていまして、その言葉が現実のものとなったことが「炎」という言葉によって示されているのです。また使徒言行録ではすでに主イエスが「あなたたちは力を受ける」と約束されています。この成就として聖霊が降ったということも明らかです。ここで聖霊は「舌」として記されています。「舌」はギリシャ語で“グロッサ”という単語なのですが、これは4節の「ほかの国々の言葉」とあります「言葉」と同じ語です。ですからここで炎のような舌として降った聖霊は、言葉を語らせる霊です。ただ、神の霊が降ってそれを受けた人が言葉を語るという出来事は、ペンテコステ特有のものではありません。旧約聖書にも記されていますし、この後にも同じようなことが起こる場面が登場します。数ある聖霊が降る記事のなかでこのペンテコステが特別なのは、聖霊の降りがみんなに起こったという点にあります。使徒たちだけでなく、一部の人たちだけでなく、一つとなって集まっていた主イエスの弟子たちみんなに聖霊が降り、みんなが力を受けて他の国々の言葉で語りだしたのです。

 さて、この物音を聞いた人々が集まってきました。集まってきたのは、天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人たちでした。帰ってきたとありますが、彼らは他国で生まれてエルサレムに巡礼に来ていたユダヤ人です。この人々が、エルサレムにおいて生まれ故郷の言葉を聞きました。グローバル化した現代とは違いますので、エルサレムにおいて故郷の言葉が話され、しかもそれを話していたのがガリラヤの人々だったのですから、大いに驚いたのです。9節以降には、どの国の人がいたか具体的に記されています。当時知られていたあらゆる国から来た人々がそこにはいました。ユダヤ人だけでなく、ユダヤ教に改宗した異邦人もいました。そのような多様な国々から来た多様な人々が皆、自分の国の言葉で神の偉大な業を語っているのを聞いたのです。聖霊を受けた側の人々に例外がなかったことはすでに語りましたが、その言葉を聞く側にも例外はありません。教会に属し聖霊を受けたすべての人々が神の偉大な業を語り、世界中の人々がそれを聞く。これがペンテコステが示す教会の姿です。また聖書において、言葉の壁を超えるということには特別な意味があります。言葉の壁は、バベルの塔の物語に起源があるからです(創世記11章参照)。人々が高ぶって天に届く塔を立てようとしたため、神は人々の言葉を混乱させられました。その結果、人々は塔の建設をやめて世界中に散らされることになりました。言葉の壁は、人が神の御前におごり高ぶった罪の結果なのです。それがペンテコステから始まる教会の宣教の業によって、言葉の壁を超えて再び一つにされていくのです。こうして言語の違いによって分断されている人々が、キリストにあって一つになっていくのです。それゆえに教会の宣教の働きは、単にキリストの御業を宣べ伝えるだけでなく、人々の平和と一致をもたらすものなのです。

 

 さて、ペンテコステにおいて語りだされた言葉を聞いた人々は、その内容を理解して「神の偉大な業を語っている」と言いました。ここで語られた神の偉大な業とは何だったのでしょうか。この箇所においては具体的に示されてはいませんが、14節以降で語られるペトロの説教に代表されるような使徒たちの教えであったと理解できます。すなわち旧約聖書において示され、主イエスキリストにおいて成就した、神の救いの御業です。これはわたしたちが日々礼拝において聞いている御言葉の内容であり、また伝道において人々に伝えていく内容でもあります。この言葉を聞いた人々の反応はさまざまです。ある人は驚き、とまどい、「いったい、これはどうゆうことなのか」と互いに言いました。一方で、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける人々もおりました。ペンテコステから始まる教会は、神の偉大な業を語ることによって「あざけり」や「さげすみ」をも受けることを示唆しています。しかしそれでもなお、教会は神の偉大な業を語り続けるのです。ここにこそ、言葉の壁を超え、人と人とのあらゆる壁を超えて、あらゆる人々を一つにするキリストの力があるからです。なによりもまずわたしたちが、キリストにあって一つとされました。神の偉大な業によって一つとされたわたしたち浜松教会もまた、世界中の教会と共に、あらゆる人々の隔ての壁を超える神の偉大な業を語り続けるのです。そのために聖霊がわたしたち一人一人に与えられたのです。