2019年1月27日礼拝説教 「見よ、それは極めて良かった」

 

聖書箇所:創世記1章1~5,26~2章3節

見よ、それは極めて良かった

 

 今年から月の最後の主日は、創世記の御言葉に聞いてまいります。いま世界において、国と国、人と人の分断が大きな問題となっています。その中で、神が世界をどのように創造されたのかを改めて見直す必要があるように思うのです。人の救いのために必要な神の御言葉が書かれた書物である聖書が、その冒頭において、この世界が神に創造されたものであると記すのです。世界をそのように理解することによって、単にわたし個人の救いだけでなく、冒頭に触れたような世界で問題になっている分断の問題を乗り越える力を持つのです。

 「創造」とは「新しく作り出す」ことを意味する言葉です。世界の創造と言ったときに、その主語は神しかありえません。神は目的をもって世界を創造されました。このことは、2節にあります天地創造の前の描写にも表れています。神が世界を創造される前、「地は混沌であった」と記されています。混沌とは「秩序がない」と「空っぽ」という2つの言葉を訳した言葉です。創造前は、ただ空っぽで物質がないだけではなく、秩序や目的もなかったのです。神は世界を創造されることによって、物質だけでなく目的と秩序を世界にお創りになられました。

 本日はそのなかでも26節以降の人の創造に目を留めたいのです。人はいかにして創られたのでしょうか。聖書の記述は明確です。神は言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。ここで明らかにされていることは、人が神のかたちに似せて創られたという事実です。ただし、神は目に見えるお方ではありません。十戒の第二戒において、神を目に見える偶像に代えることが厳しく戒められているとおりです。したがいまして、人が受け継いだ神のかたちとは、目に見えるかたちではなく目に見えない神の御性質です。続く27節の最後には、男と女に創造されたと記されています。続く28節の神の祝福の言葉によって人が創られた目的が記されています。これらはすべて、複数形「あなたがたは~せよ」で命じられています。人の目的は、この世界を神様の御心にしたがって治めることですが、それは男女が協力して、手を取り合って行うものなのです。すべての人が神様から与えられた目的のために協力し、手を取り合って生きる。神はそのために人を創造されたのです。このことを思うとき、自分とは違う人々を指して、「あの人は劣っている」ですとか、ある国を指して「あの国は遅れている」と言うことはできないのです。男女問わずすべての人は神のかたちに創られており、協力しあって目的を達成することが意図されているからです。またそれができるように、29節で神は人に食べ物をお与えになりました。人がちゃんと働くことができるように、神様は必要な物をちゃんと備えてくださったのです。このように、あらゆることが整えられた世界を神はごらんになりまして、「極めて良い」と言われたのです。それは神の創造の目的にかなった、素晴らしい世界であったのです。

 神は六日間で天と地のすべてのものをお創りになられました。それに続いて、第七の日に神が御自分の創造の仕事を離れて安息なされたことが、天地創造の一環として書かれています。しかも神が安息なされた第七の日に、神は御自分の仕事を完成されたと記されています。創造が目に見える世界を創ることだけを指すならば、第六の日にすでに完成しているはずです。しかし、神が世界を創られた目的や秩序の面からは、第七の日が必要なのです。この安息の日があってはじめて、神様の目的とされた世界は完成されるのです。しかも神は、目に見えるものを生み出さないこの安息の日を特に大切にされたのです。この日に、世界を創られた神様の祝福と恵みの中心があるのです。人が安息日に休むということは、人が神のかたちに創造されたことの現れでもあります。そしてまた安息日を守ることによって、その人が神に創られた者であり、その人が神の御支配と守りの内にあることが示されるのです。それにもかかわらず人間は、安息日を容易に仕事の日にしてしまうのです。新約聖書に出てきますファリサイ派の人々は、安息日を「規則を守る仕事の日」にしてしまいました。彼らに対して主イエスは御自身を「安息日の主である(マタイ12:8)」と言われました。この主イエスを十字架にかけた人々は、神様が大切に創造された安息日をなきものにしようとしたのです。現代においても、安息日をなきものにしようとする力が働いています。さまざまな予定が、日曜日に入ってまいります。なぜ現代において、これほどまでに安息日を守ることが困難になってしまったのでしょうか。それは、多くのものを自分のものにすることが、あたかも生きる目的であるかのように理解されているからではないでしょうか。もし本当にこれが人の生きる目的ならば、何も生み出さない安息日はないほうがいいのです。非効率だからです。このように多く得ることを目的に生きることで人々は、安息日を忘れ、神が世界を創造された目的と秩序を失っていきました。世界を創造された神の目的を失うことは、目的も秩序もない混沌の状態に戻ろうとすることに他なりません。この混沌の中で、多くのものを得ようとした結果、人と人、国と国が対立し分断されているのが今の世ではないでしょうか。

 

 だからこそ今わたしたちが、安息日のこの日曜日に、神の御許で安息することが大切なのです。これは、神が創られた世界の目的と秩序の回復を意味します。安息日の主である主イエスキリストは、十字架と復活の御業によってわたしたちが神と共に憩う安息日を回復してくださいました。この恵みを受けることによって、神がこの世界を創られたこと、そしてその神が今もこの世界をご支配されていることが確かに示されていくのです。