2019年1月20日礼拝説教 「使徒の任務を継ぐ者」

 

聖書箇所:使徒言行録1章15~26節

使徒の任務を継ぐ者

 

 15節では、ペトロの立つ動作がわざわざ記されています。それは主イエスを三度知らないと言ったことによって、彼の信仰は一度完全に倒れたからです。そのペトロが、復活の主イエスによって新たな働きへと召されました。この召しによってペトロは立ち上がらせられたのです。この立つという言葉は、「復活する」という意味でも用いられる言葉です。ペトロは、復活の主イエスに復活させられた人です。それはペトロだけではありません。主イエスの復活の証人は皆、主イエスに新たな命を与えられて復活させられた者なのです。

 立ち上がったペトロはまず、主イエスを裏切ったユダについて語ります。主イエスの弟子のなかから裏切り者が出てしまいました。ユダは弟子たちのなかでも、お金の管理を任されるほど信頼が厚い人物でした。そのユダが主イエスを裏切ったことは、弟子たちにとって大きな痛みでした。その状況のなかで、「聖書の言葉は実現しなければならかった」という点にペトロは希望を見出したのです。裏切りという痛みに直面してもなお、希望を与えるのは聖書の御言葉なのです。17節では、ユダがペトロたちと同じ任務についていたと語られています。ここで任務という言葉に対応するギリシャ語は「ディアコニア」です。この言葉はもともと奴隷が主人に対してなす食事の給仕をさしていました。それが、他人の益のためになす働きとして用いられるようになりました。ユダはこのディアコニアの働きを担った一人でした。しかし不正を働いて得た報酬で土地を買うという、ディアコニアとは逆のことをしていたのです。その結果ユダは、その土地にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。その結果この土地は「血の土地」と呼ばれるようになりました。旧約聖書に、神の裁きによってはらわたが出る描写が用いられています(哀歌2:11、ゼファニヤ書1:17)。主イエスを裏切ったユダに、聖書の示す神の裁きが下ったのです。単に悪いことをしたユダに罰が下ったということよりも、この出来事において聖書の神が働いておられることが強調されているのです。事実、この表現に続く20節では、二つの詩編にある聖書の御言葉が引用されています。一つ目は詩編69編28節からの引用です。まさにこのことが、ユダの買った土地が「血の土地」と呼ばれるようになったことによって実現しました。二つ目は詩編109編8節からの引用です。この言葉は、この時点ではまだ実現していませんでした。つまり一つ目の詩編の言葉が実現したのだから、二つ目の詩編の言葉も実現しなければならないのです。それゆえに、ユダに代わって使徒をもう一人加えましょうという話になっていくのです。

 加えられる使徒の条件が、21~22節に記されています。この条件は、使徒1:1で言及されています第一巻(ルカ福音書)の内容と関連しています。ルカ福音書を目撃した者が、使徒としての任務を継ぐ条件であったわけです。この条件にしたがって、ヨセフとマティアの二人が候補として選ばれました。どちらを使徒に加えるかを決める手段は、くじでした。旧約時代において、くじは神の御心を知るための手段として普通に用いられていました。重要なことはそこに集う者が、真摯に神の御心を求めるということです。くじを引く前に、すべての人の心をご存知である主に向かって祈っています。この祈りがあってこそ、神の選びによってマティアが使徒に選ばれたのだと皆が確信することができたのです。ただし、神の御心を知るためにくじが用いられるのはこれが最後です。以降、聖書にくじは出てきません。なぜならこのあとに聖霊が下るからです。これ以降、くじではなく聖霊なる神様御自身が御心を示されるのです。実際に、聖霊が直接働かれてパウロの道を妨げたり導いたりする場面があとに記されています。こうして神の御心が示されました。また聖霊が神の御心を示される手段が、使徒言行録にはもう一つ示されています。それは会議です。15章のエルサレム会議において、当時の教会の中心メンバーが集まって話し合いをいたします。もうここではくじを引いたりしません。話し合いによって、神の御心が示されていくのです。会議で神の御心を求めるために重要なことは、くじのときと変わりません。そこに集う者が真摯に神の御心を求めることです。この求めに応じて、神の御心が会議においても示されていくのです。わたしたちの教会においても、会議によって神の御心を求めます。そこで示された御心にしたがって、わたしたちは教会の働きをそれぞれの賜物を用いてを行うのです。これが教会活動です。すべてを動かしているのは、わたしたちに示された神の御心です。

 

 今日の御言葉において示されていることは、使徒たちが自分たちでできることを行ったということです。彼らは部屋に閉じこもって祈りだけをして、他に何もせずに約束された力を待っていたわけではありません。いま自分たちが置かれている状況を、御言葉によって理解しました。そして御言葉から、いま自分たちがすべきことを見出しました。さらにくじによって神の御心を尋ね求め、その御心にしたがって使徒を立てたのです。こうして彼らは、ペンテコステに向けての体制整備したのです。こうして整えられた十二人の使徒たちによって、主イエスの教えは地の果てに至るまで伝えられていきました。御言葉に示されている神様の約束のために、わたしたちにもできることがあるのです。それは小さなことかもしれません。しかしその小さなことが、御言葉に聞くことによって、また御心を尋ね求める話し合いの場において、具体的に見出されていくのです。ここで見出されたわたしたちにできることを、神様のために喜んでいきましょう。神様は大きな実りをもって、それに応えてくださいます。