2019年1月13日礼拝説教 「熱心に祈って待つ」

 

聖書箇所:使徒言行録1章9~14節

熱心に祈って待つ

 

 8節で主イエスは、彼らが力を受けて主イエスの証人となるとの約束を使徒たちに語られました。この約束をなされた主イエスが、天に昇られました。主イエスの昇天と言われる出来事です。

 主イエスの昇天は、わたしたちにとってどのような意味を持つのでしょうか。一つは、主イエスが目に見えなくなったということです。それは9節にも記されています。もし主イエスが今も目で見て会話することできたならば、もはや証人は必要ありません。主イエスが見えないからこそ、主イエスの証人の働きは意味を持つのです。主イエスが昇天されて目に見えなくなったことは、主イエスの証人が証人としての働きを始めるための準備の意味があるのです。主イエスの昇天が持つ意味をもう一つ述べておきます。それは主イエスが世界をご支配される場所に着かれたということです。使徒信条がそのことをよく示しています。天にのぼられた主イエスが、その後全能の父なる神の右に座したのだと使徒信条は教えています。天に昇られた主イエスは、全世界を支配する者となられたのです。そのご支配は、世の中のあらゆる権威、あらゆる勢力に及びます(1ペトロ3:22)。弟子たちが主イエスの証人として遣わされていくところは、決して主イエスのご支配が及んでいないところではないのです。オランダの神学者アブラハム・カイパーがこのように言っています。「キリストの主権が及ばない領域は現世にあって一インチ四方さえも存在しない」。この主イエスのご支配には、ゴールがあります。それは主イエスが再び来られて、この世界を完成されるときです。このことを、白い服を着た二人の天使たちが使徒たちに語っています。これはルカ21章において、すでに主イエス御自身が教えられていたことです。このゴールに向かって主イエスの証人としての歩みを始めよという促しが、天使たちから使徒たちに語られているのです。

 主イエスの昇天を見届けた使徒たちは、エルサレムに戻りました。彼らは、主イエスの証人としていきなり世界中に出ていくことをしませんでした。それは4節に記されている、エルサレムで待てという主イエスの御命令があったからです。この御命令にしたがって、使徒たちはエルサレムで待ちました。そして家の上の部屋に上がって、熱心に祈ったのです。家の上の部屋とは、どのような場所であったのでしょうか。聖書において、家の上の部屋が使われる最も有名な場面は、最後の晩餐です。この部屋は食事の場所として用いられていたようです。それぞれの家庭の私的な営みがなされる場所でありましょう。ルカ福音書の最後にも、主イエスの昇天を見届けた後の使徒たちの様子が記されています。しかしそこにこの部屋は登場せず、彼らは神殿にいたと記されています。ここには神殿で公的な礼拝を捧げている様子が記されているのです。しかし24時間神殿にいたわけではないでありましょう。家に帰ってそれぞれの生活をしたのです。その私的な生活においても、家の上の部屋で彼らは熱心に祈っていたのです。

 彼らはなぜこれほど熱心に祈っていたのでしょう。イエス様の約束を確信し、信仰が強められて祈っていたのでしょうか。どうもそうではないように思うのです。ある注解書を読んでいましたら、この箇所の解説にタイトルがついていました。それは、「昇天とペンテコステの間」というタイトルです。つまりこのとき主イエスはもう目に見えなくなった一方、約束された力はまだ与えられないのです。そう考えますと、ここに記されている使徒たちの熱心な祈りは、不安の中でなされたものではないかと思うのです。しかしこの祈りは、決して独りぼっちの祈りではありませんでした。ここには、心を合わせて共に祈る人々が記されています。彼らは、最初期の教会の中心メンバーでした。彼らから世界中に教会は広がっていきました。では彼らは信仰にあつく立派な人々だったのでしょうか。そうではありません。11人の主イエスの弟子たちは、イスカリオテのユダのように主イエスを裏切ることはしませんでしたが、主イエスが捕まるとき一目散に逃げていった人々です。次に挙げられている婦人たちは、おそらく主イエスの働きを支えていた女性たちを指すであろうと理解されています。決して特別な人々ではありません。では、主イエスの母マリアやその兄弟たちはどうでしょうか。ヨハネ7;5には、はっきりと「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」と記されています。皆が弱さの中にあった人々です。そんな彼らが、主イエスが天に昇られて見えなくなった不安のなかで、それでも主イエスの約束を信じて、心を合わせて熱心に祈る姿がここに記されているのです。私的な生活の場である家の中で、彼らは心を合わせて祈りました。この祈りの先にペンテコステがあり、世界中に教会が建てられていったのです。これらをとおして、主イエスのご支配が世界中に現れていったのです。それらはすべて、弱く小さな者たちの私的な場所での熱心な祈りから始まりました。

 

 わたしたちは今、教会において礼拝を捧げています。教会では、聖書や祈り、交わりなどをとおして主イエスのご支配が比較的よく現れているでありましょう。しかし今日この礼拝が終わりますと、わたしたちは教会からそれぞれの私的な歩みへと遣わされていきます。そこは、主イエスキリストのご支配が大変見えにくい場所ではないでしょうか。しかしそこにおいてこそ、主イエスのご支配を熱心に祈って待つ者でありたいのです。それは、決して孤独な祈りではありません。ここに、心を合わせて共に祈る兄弟姉妹がいます。たとえ場所においては独りでも、その祈りは兄弟姉妹と心を合わせて共になす共同の祈りです。このような私的な場所での共同の祈りをとおして、主イエスキリストのご支配がこの世界に確かな形で現れるのです。