2018年12月23日クリスマス記念礼拝説教 「飼い葉桶の救い主」

 

聖書箇所:ルカによる福音書2章1~7節

飼い葉桶の救い主

 

 教会のクリスマスのチラシには「本当のクリスマスを教会で」と書かれることがあります。本当のクリスマスが教会にあるよ。そのような思いがこの言葉に込められているでありましょう。しかし「本当のクリスマス」とは何でしょうか。教会に来てクリスマスを祝えば、それだけで本当のクリスマスなのでしょうか。そうであれば、クリスマスをお祝いする場所だけが大切という話になります。もちろん、場所の問題ではありません。では本当のクリスマスか否かを分けるものは何でしょうか。それを知る一つの鍵が、救い主が飼い葉おけに生まれられたという点にあります。

 救い主である主イエスキリストの誕生は、旧約聖書に予告されていました。それゆえに、何世代にもわたって人々は救い主を待ち続けていました。そしてついにその方がお生まれになりました。ではこのとき、人々は救い主が生まれられたことをお祝いしたのでしょうか。そうではありませんでした。皆、忙しくしていました。その原因は、当時この地方を支配していたローマ皇帝の「住民登録をせよ」という命令にありました。大きな権力を持つ人の鶴の一声によって人々が動かされている様子がここから見て取れます。それに翻弄される一組の夫婦が、ここに記されています。ヨセフとマリアです。4節を見ますと「ダビデ」という名前が二度出てきます。ダビデとは、かつて神様に選ばれた王様の名前です。ダビデの子孫から救い主が生まれると、旧約聖書には予告をされていました。旧約聖書が予告したとおり、救い主が今まさに生まれようとしているのです。しかし救い主の誕生を何世代にもわたって待っていたはずの人々は、権力者の命令で頭がいっぱいだったのです。

 ヨセフはかつての王様であるダビデの子孫でありましたが、このとき何か特別な地位や権力を持っていたわけではありません。母マリアも、特別に人々から目を留められるようなものを持っていた人物ではありません。ですから彼らも皇帝の命令に従わざるを得ませんでした。若く小さな存在であるこの夫婦に、誰も特別に目を留めることはありませんでした。彼らから救い主が生まれようとしているのに、皆が自分のことに一生懸命でした。そしてついに、旧約聖書で予告された救い主、イエスキリストはお生れになりました。それはヨセフとマリアが住民登録のためベツレヘムに滞在しているときでした。しかし彼らには、人が過ごすような部屋がありませんでした。そのために、産まれた赤ちゃんは布に包んで飼い葉おけに寝かされました。産まれたばかりの救い主が寝かされたのは、人ではなく家畜がいる場所でありました。こうして飼い葉おけの救い主が誕生しました。

 なぜヨセフとマリアには、人が過ごすような部屋がなかったのでしょうか。住民登録の影響であることは間違いありません。当時ベツレヘムは小さな村に過ぎませんでした。そのような村に住民登録をする人々が旅をしてくるわけですから、宿の部屋が足りるはずがありません。こうした状況のなかで救い主は、結果的に家畜のいるような粗末な場所でお生まれになったのです。そこは臭いもしたでしょう。衛生面でも問題があったでしょう。そんなところに、わたしたちの救い主はお生まれになったのです。もし主イエスキリストが約束された救い主であることが世の人々に理解されていたならば、この方が飼い葉おけに寝かされることはなく、より相応しい清潔なところで過ごすことができるよう配慮されたはずです。なぜならこの方こそが、人々を救う力をお持ちだからです。しかしそのような扱いがなされることはありませんでした。それゆえに救い主は、飼い葉おけのなかでお生まれになりました。飼い葉おけの救い主とは、世の人々から歓迎されない救い主なのです。それと同時に救い主イエスキリストは、あえてそのような貧しく人間的な魅力を持たない姿でお生まれになることをお選びになったとも言えます。救い主は立派な両親から生まれられたわけではありませんし、お生まれになった場所も家畜小屋ですから人が好んでいく場所ではありません。あえてそのようなところを選ばれたのです。この面では、人々が救い主の誕生を見逃してしまったことは理由のあることなのです。飼い葉おけの救い主に、世でうまく生きていくための益になるようなものは期待できないからです。世的な利益を期待して、飼い葉おけの救い主のところに来ることはできません。ですからそれらを得ることを目的として、この救い主の誕生を喜ぶことはできないのです。それゆえに、この救い主のもたらす救いや、この救い主の誕生そのものを喜ぶ以外に、クリスマスを喜ぶ目的はないのです。飼い葉おけの救い主に、いわゆるご利益を期待することはできないからです。もちろん神は、世の生活や食べ物やお金といったものもを決して軽んじられるお方ではありません。しかしそれが主目的ではないのです。クリスマスの喜びの主目的は、主イエスキリスト以外にありえないのです。ここに、本当のクリスマスか否かがかかっているのです。

 

 日本のいたるところで、クリスマスという文字が躍っています。しかしその祝いの主目的はなんでしょうか。それらは、クリスマスが終われば過ぎ去っていくでしょう。しかし飼い葉おけの救い主が与えてくださる本当のクリスマスの喜びは、そんな一時的なものではないのです。クリスマスの語源は、「キリスト礼拝」です。飼い葉おけの救い主の誕生を喜び、飼い葉おけのキリストを礼拝する。これが本当のクリスマスです。いまここに、本当のクリスマスがあります。ここには、クリスマスが終わったあとも消えることなない救いの喜び、死の先にあっても消えることのない希望があります。これらをお与えくださる方が、飼い葉おけの救い主です。このお方を、わたしたちの救い主としてほめたたえようではありませんか。