2018年12月16日礼拝説教 「神が目を留めてくださる者 」

 

聖書箇所:ルカによる福音書1章46~55節

神が目を留めてくださる者

 

 本日の礼拝におきましては、加入・信仰告白式、成人洗礼式を行うという特別な恵みが神様から与えられました。この特別な礼拝の説教において、マリアの賛歌の御言葉が与えられました。いまわたしたちに与えられている喜びと、この歌を歌ったマリアの喜びを重ね合わせながら、この御言葉に聞いてまいりましょう。

 マリアの歌は神への賛美によって始まります。46節と47節では同じ内容が表現を変えて繰り返し述べてられています。それほどまでに、マリアの神をたたえる思いは強いものでありました。彼女は自らを「身分の低い、このはしため」と言っています。それにもかかわらず、主なる神がわたしに目を留めてくださった。この驚き。これがマリアの賛美の思いを強くしているのです。それは、力ある方がわたしに偉大なことをなさったことが根拠となっています。力ある方とは、全能の神、なんでもできる神を指します(37節参照)。神は全能ですから、常識的に考えればもっと相応しい女性を救い主の母として選ぶことができたはずです。しかし、驚くべきことに神はマリアを選ばれました。そして彼女は救い主を身ごもったのです。「偉大なこと」とは、直接にはこのことを指しています。しかしそれに加えてこの表現は、旧約聖書とのつながりの中で語られています。申命記10章や詩編126編などで、今日のマリアのように、神が大きな業をなされたと記されている箇所があります。これらが指していますのは、神が神の民イスラエルを救われた出来事です。具体的には、出エジプトやバビロン捕囚からの帰還です。神が大きな業をなされる前、神の民は外国において奴隷とされていました。まさしく身分が低く、卑しい存在でありました。しかし神は、低く卑しい状態にあった神の民に、あえて目を留められました。そして神の民を虐げていたエジプトやバビロンを打ち砕いて、神の民を救い上げられたのです。思い上がっている者、権力や富があって低い者を虐げている人々を打ち砕き、低く虐げられていた神の民を救い上げられる神の御業。これが旧約聖書の語る神の大きな業であります。マリアは自分が救い主を身ごもったこの出来事を、旧約聖書において神が神の民を救い上げられた御業につながるものとして理解しているのです。

 

 つづく51節~53節の言葉は、神のなされる「偉大なこと」の中身なのです。神は、高く立派な者ではなく低く卑しい者、飢えている者に目を留められるお方です。そして、思い上がっている人々を低くし、彼らを救い上げられるのです。高く天にいます神は、驚くべきことに御自身とは全く違う低く卑しい者、飢えている者に目を留められ、彼らのために偉大なことをなされるのです。これが、神の憐みの中身です。神はかつて神の民イスラエルに注ぎ続けてこられた憐みを、今度はマリアに注がれました。神がマリアに偉大なことをなされ、救い主イエスキリストが誕生することとなります。そしてこの救い主イエスキリストによって、神は偉大なことをあらゆる虐げられた人々に提供なさろうとされたのです。この神のなさる偉大なことを、わたしたちはこの礼拝においても目撃したのです。信仰告白や洗礼において、神は偉大なこと、救いの御業を示されたのです。また思い返せば、わたしたちは皆、神が偉大なことをなさってくださったことにより、救い上げられた者なのです。わたしたちは皆、神が目を留めてくださった者なのです。神は憐みにより、卑しい者にあえて目を留められるお方です。そして高ぶる者を打ち砕いて、目を留めた者を救い上げられるお方です。それは、旧約聖書の出エジプトの出来事以来、マリアに至るまで一貫しています。そうであるならば、神が目を留めてくださったわたしたちもまた、マリアと同じように、神の御前では低く卑しい仕え人です。「卑しい」という言葉は、聖書のなかで「捕らえられる」や「圧迫されている」という意味でも用いられます。これはまさに、エジプトやバビロンで奴隷にされていた神の民の状況に当てはまります。マリアは結婚前に主イエスを身ごもりましたから、おそらくは彼女を浮気者として見る人々も多くいたでありましょう。救い主を身ごもったがゆえに、彼女は卑しめられ、蔑まれなければなりませんでした。それでも、驚くべきことに神がマリアに目を留められ、彼女をとおして救いの御業をなされたことが明らかとなったのです。この驚くべき一点において、マリアは神を賛美してこの歌を歌うことができるのです。こうして救い主イエスキリストが世にお生れになりました。この救い主は、自らが卑しい者となることによって救いの御業をなされました。十字架の死に至るまで卑しめられ、その後死者の中から救い上げられました。これが復活です。十字架と復活は、卑しい者に目を留め、その者を救い上げられる神の御業そのものなのです。キリスト者の歩みは、人々から卑しめられ、蔑まれ、圧迫される歩みです。しかしそういった状態にある神の民に、神は目を留めてくださるのです。そして、神御自身がわたしたちのところに下られるのです。こうして卑しめられているわたしたちに目を留め、救い上げられ続けるのです。この驚くべき救いの御業を、旧約聖書の時代からマリアを経て、主イエスを経て、今に至るまで、一貫して神はなさり続けてくださっているのです。そしてこれからも神は、同じようになさり続けるでありましょう。わたしたちの救いは、この神の壮大な御計画の中に位置づけられているのです。そして今度は私たちをとおして、神は偉大なことをなさり続けられるのです。神が、低く卑しいこのわたしに目を留め、偉大なことをなされました。このことに、マリアは驚き神を賛美しました。わたしたちも、神の救いの御業に驚き、それゆえに神を賛美する者であり続けたいのです。