聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一5章23~28節
すべての兄弟たちに
テサロニケの信徒への手紙一の最後の部分には、神への祈りとこの手紙の取り扱いについて記されています。わたしたちが5か月間一生懸命この手紙を読んできました。なぜわたしたちはパウロがテサロニケ教会に宛てた手紙を読むのでしょうか。そしてどのような態度でこの手紙を読むべきなのでしょうか。このところから、教えられたいのです。
パウロは祈りの始めに「平和の神」に言及しています。平和の神とは、教会の秩序を建てあげる神です(12,13節)。この神があなたがたを全く聖なる者としてくださるように、とパウロは祈っています。全く聖なる者といわれていますので、これは主の日において救いが完成することを指しています。主の日には、霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとされるのです。つまりは、心も体も全部が聖なるものとされるのです。このことは「非のうちどころのないもの」という言葉によっても表現されています。これは、これまでパウロがこの手紙で教えてきた「救いの希望」の姿です。パウロはこの手紙で、あなたたちが主の日の救いに与ることが神の御心であると記してきました。だからこそ、神御自身がその御心をそのとおりに行ってくださるようにと祈ったのです。教会で大切にされることが神の御心である以上、神がそれを行ってくださらなければ意味をなさないのです。特にテサロニケ教会は、教会の内外に多くの問題を抱えていました。ですから、この手紙に書かれている神の御心がテサロニケ教会において実現するために、神御自身の働きが特に必要な状況にあったのです。一方でパウロは「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」とも記しています。真実とは「忠実」とも訳される言葉です。忠実とは、ある意志や思いがあって、それにそのとおりに従って実行するということです。パウロはこの手紙を神の御心として書きました。神はこの御心に忠実なお方なので、この祈りのとおりに神が実行してくださるとパウロは確信しているのです。神が御心を達成してくださるのだから、どんな困難の中にあってもめげずに歩み続けよ。このように、パウロは励ましているのです。
パウロは祈りに引き続きまして、25節以降で再びいくつかのことを命じています。まずパウロは、自分のために祈るようお願いをしています。パウロ自身、神の御心のために働いた人物ですから、神が御心をなしてくださらなければパウロの働きは意味をなさないのです。それゆえに、兄弟たちの執り成しの祈りが必要なのです。わたし自身、様々な方から祈られて日々の奉仕をしています。「自分は祈られている」という思いのなかで奉仕をすることの大切さを思わされています。祈られてなされる教会の働きは、どれほど良い結果でも、反対に大失敗と思えるような結果でも、神の御心によってなされたと確信することができるのです。祈りあうことによって、教会に神の御心が示され、御心によって動かされる教会ができあがっていくのです。続く26節と27節で、パウロは2つことを命じています。「すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい」。そして、「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」。特に後者の命令については、大変強い思いをもって命じられています。聖なる口づけとは、教会内で一般的に行われていた挨拶の行為です。この挨拶の行為において自分のことも心に留めておいてほしいとパウロは願いました。続いてこの手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるようにという命令です。「すべての兄弟たちに」と言われている点が重要です。教会内のだれ一人、この手紙を読むことに関して漏れがあってはならない。パウロは、主の権威によって強く命じます。この当時印刷機はありませんので、この命令を行うためには教会員皆が集まるときに手紙を読み聞かせるしか方法はありません。そして教会員皆が集まるときとは、礼拝のときしかないのです。礼拝のときに、この手紙をみんなに読んで聞かせるようにとパウロは主によって強く命じているのです。これはまさにわたしたちがここで日曜日ごとにずっと行ってきたことです。パウロは、この手紙に従ってテサロニケ教会のすべての兄弟たちが歩むように命じています。この手紙を、テサロニケ教会は主日の礼拝において聞きました。そして日曜日から始まる一週間を、この手紙に記された神の御心に従って歩んだのです。こうしてテサロニケ教会は、神の御心に従う教会の歩みをなしたのです。わたしたちも、同じことをしてきました。こうしてわたしたちの教会もまた、テサロニケ教会のように神の御心に従う教会になっていくのです。ですから、礼拝が大切なのです。礼拝において神の御言葉をすべての兄弟姉妹と共に聞くことによって、教会は神の御心に従う教会になるのです。このようにして、教会に属するすべての兄弟姉妹たちが、救いの希望に与るのです。
この手紙において様々なことが命じられていました。完全に行うことは、困難と言わざるを得ません。ただ、これら命令のなかで絶対に外してはならないことは、礼拝で共にこの御言葉を聞くことです。教会に結ばれている者の歩みの中心は、礼拝です。それゆえに、教会のあらゆる働きの最終目的は、礼拝で神の御言葉を聞くことでなければなりません。またわたしたちは、兄弟姉妹と御言葉に聞くことを大切にしなければなりません。それ故に礼拝に出席できない兄弟姉妹への配慮が必要です。パウロが、このことを主によって強く命じています。礼拝には、わたしたちが神から与えられた恵みの中心があります。それはキリストが十字架にかかられてまでわたしたちに与えられた恵み、わたしたちの主イエス・キリストの恵みです。これほど大きな恵みが与えられているのですから、すべての兄弟姉妹たちと共に喜んで受け取ろうではありませんか。受け取る場所は、この礼拝です。