2018年11月11日礼拝説教 「悪ではなく善を 」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一5章12~15節

悪ではなく善を

 

 直前の箇所までにおいては、主の日が取り上げられていました。主の日を教えたパウロが何よりも大切にしたことは、わたしたちが今をどう生きるかです。その総括として、教会がどう歩むかを今日の箇所でパウロは具体的に教えています。信仰者であるわたしたちの歩みの中心は、教会にあります。だからこそ、教会がどのように歩むべきか、教会がどのように主の再臨を待つのかが大切なのです。今わたしたちは教会設立を目指しています。だからこそ、わたしたちは「教会で大切にされるべきことは何か」、そして「教会とは何か」を、特に問わなければなりません。今日の箇所は、それらの問いに一つの答えを示してくれる御言葉でもあるのです。

 今日の箇所でパウロがまず命じていますのは、「教会の働き手を重んじ、愛をもって心から尊敬せよ」ということです。彼らは教会のなかで労苦している人々であり、身を捧げて教会の働きのために仕えていた人々です。同時に彼らは、主に結ばれた者として教会に属する人々を導き戒める者でもありました。教会は人の集まりであり、組織です。それゆえに、その組織を導き治める者が必要です。ただし教会は、人の能力や魅力によって治めるのではありません。主に結ばれた者が、主の御心によって教会を治めるのです。その働きのゆえに彼らは重んじられ、また愛をもって心から尊敬されなければならないのです。重んじるとは、もともとは「知る・理解する」という言葉です。教会で中心的に仕える者が、主の御心を行うためにどのような働きをしているか、どのような重荷を負い、どのように苦労しているかを知るようにとパウロは命じるのです。働き手の重荷や苦労を知ることによってはじめて、愛をもって心からその人を尊敬することができるのです。これは教会の役員の働きだけでなく、教会内のすべての働きに当てはまるでしょう。主の御心のためになされるあらゆる働きを、互いに知りあい、尊敬しあう。これが教会の平和の土台です。したがって、教会における働きが重んじられるか否かの基準は、主の御心にかなった働きであるか否かなのです。

 続いて14節以降では、主の御心に基づいて具体的に行うべき行動が記されています。初めに、怠けている者たちを戒めるよう命じられています。彼らは決して、怠けて何もしない人々ではありません。教会の秩序を無視して、自分勝手な信仰理解と生活を貫いていた人々です。このような者たちを戒めるようにと、パウロはまず命じるのです。教会において、御心に沿わない理解や生活は戒められ矯正されなければなりません。個々人の自由な信仰理解に基づいて、それぞれのやり方で信仰生活を実践していては、教会は決して立っていかないからです。続いて気落ちしている者たちを励ますこと、弱い者たちを助けることが命じられています。これらの人々は、御心にかなった生活をすることに妨げのある人々です。このような人々に寄り添うこと、そして彼らが御心にかなった生活を始めることができるよう配慮することがここで命じられているのです。さらにパウロは、すべての人に対して忍耐強く接することを命じます。すべての人と言われていますので、教会外の人々、教会を迫害している人々に対しても忍耐強く接するようにパウロは命じていると考えられます。では忍耐強く接するとは、具体的にどのような行動を指すのでしょうか。それが15節に記されています。テサロニケ教会には、教会の内外において「悪だ」と思えることが溢れていたでありましょう。そのような悪を前にしたとしても、お互いの間でも、すべての人に対しても、善を行うように努めよとパウロは命じるのです。この部分は直訳すると「善を追い求めよ」という意味になります。悪を受けたとしても、あなたがたは善を追い求めよと命じられているのです。

 ここで一つ考えたいのは“善”についてです。これは決して自明のことではありません。自分の思う善が、誰にとっても善とは限らないからです。パウロが語る“善”とは何でしょうか。それは「神の御心にかなうこと」です(ローマ12:2参照)。ですから善と対立している悪とは「神の御心にかなわないこと」でありましょう。世において“悪”と言われていることはいろいろとあります。悪がなされるとき、誰しも心に痛みを感じます。しかし信仰者であるわたしたちの心の痛みの中心にあるのは、悪がなされることそのものよりも、「神のみこころにかなわないこと」が現実となっていることにあります。それは教会の外だけでなく、教会の中においても起こるのです。それゆえに信仰者の心は痛みます。テサロニケ教会もこの痛みをみんな抱えていました。そんな彼らに対してパウロは命じます。忍耐強くあれ、悪によって悪に報いるな、むしろあなたたちは御心にかなう善を追い求め続けよ、と。これがパウロの命じる「教会の歩み」です。何よりも主イエス・キリストが、悪にそまったわたしたちのために、神の御心に従って十字架にかかられたのです。今度はわたしたちが、悪に対して神の御心である善を行うのです。これが教会の歩むべき道であり、そしてこの歩みの先に真の平和があるのです。 

 冒頭の問いに戻りましょう。教会で大切にされるべきことは何でしょうか。今日の箇所に則して答えるならば、それは神の御心です。そして教会とは、神の御心である善が追い求められるところです。だからこそ教会において、神の御心に従って導き戒めている人々は尊敬されるのです。信仰生活に妨げのある人々が、御心にかなった歩みをできるように教会は配慮をするのです。何よりも、御心にかなわないことがなされている現実のなかで、わたしたち自身が神の御心を学ぶこと、それを行うよう努めること。これが教会の使命でありましょう。そのような教会を、わたしたちはこれから共に建て上げていくのです。