2018年11月4日礼拝説教 「主と共に生きるために 」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一5章7~11節

主と共に生きるために

 

 この手紙の4章から問題にされておりますのは、すでに眠りについた兄弟姉妹についてです。彼らは神の救いの約束から漏れてしまったのではないか。この疑問に対してパウロは、すでに眠りについた者は主の日に復活し、そのとき生きている者と同じように救われることを教えています。5章に入りますとパウロは主の日に対する正しい態度を教えています。光の子、昼の子である信仰者は、目を覚まして身を慎んで歩むようにと勧められています。その続きである今日の箇所の話題は、その前までと概ね共通しています。ただこの箇所で特徴的なことは、主の日において実現する事柄から勧めが語られている点です。「主と共に生きるために」との言葉がわたしたち信仰者の人生の終着点、ゴールとして記されています。ゴールが明確であれば、その歩みが大きく間違った方向に進むことはありません。しかしこの大切な人生の目的が、ときに忘れ去られてしまうことがあるのです。そのような人々が、7節の眠る者、酒に酔う者です。彼らは夜に属する者です。当時電気はありませんので、夜は真っ暗闇です。目的地に向かって歩くことなどできないのです。ですから彼らには人生のゴールが見えていないのです。それゆえに世の生活が怠惰になってしまっていたのです。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは礼拝し献金し奉仕し伝道します。それは、それらをとおして到達したいゴールがあるからです。このゴールを忘れて、礼拝・献金・奉仕・伝道そのものが目的となってしまったら、そこに喜びはないのです。逆に、目指すべきゴールを見失わなければ、そこにいかなる苦しみがあろうとも喜びを失うことはないでありましょう。

 この観点で言いますならば、8節で「わたしたちは昼に属しています」と記されているのは、将来到達すべきゴールがはっきりと見えていることを指しています。教会に属している者は、皆が昼に属しています。なぜなら皆、主イエスによる救いを告白したからです。それは主と共に生き始めた証であり、当然「主と共に生きる」という人生のゴールを知っているということです。だからこそ、人生の目的に向かって、ゴールに向かって、落ち着いて歩めとパウロは命じているのです。その具体的な歩みが、信仰、愛、救いの希望という言葉によって8節に記されています。胸当てと兜。いずれも危険から身を守る防具です。信仰者の歩みには危険があることが前提とされています。様々な危険に備えなければなりません。そこから守ってくれるのが、信仰と愛、そして救いの希望です。特に強調されているのは、救いの希望を兜としてかぶるということです。兜という言葉は、英語訳の聖書ではヘルメットと訳されています。ヘルメットが守るのは、頭です。そして上からの危険から守ってくれるものです。信仰者を襲うのは、周囲からもたらされる横からの危険だけではありません。上からの危険、神からもたらされる危機があるのです。その最たるものが主の日の裁きです。しかし今を生きているわたしたちの人生においても、「神よ、なぜ」と問わずにはおられないような危機があります。自らの存在を揺さぶるような危機、神からもたらされる上からの危機からわたしたちを守ってくれるのが、救いの希望です。救いの希望とは、「主の日における神の裁きのあとに、完全な救いに入れられることが約束されている」という将来の希望のことです。それは9節で「定め」という言葉によって言い表されています。神の裁きの結果があらかじめ定められているということです。信仰者が、神の裁きを経て主イエス・キリストによる救いにあずからせるように、神が定めてくださっているのです。この救いが「主と共に生きるようになる」という言葉で表現されているのです。このゴールは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、すなわち主の日に生きていても先に眠りについていたとしても、変わらないのです。最後には主と共に生きるようになる。神によって、そのように定められている。これが、上からの危機を防ぐわたしたちのヘルメット、救いの希望です。この救いの希望は揺らがないのだから、現実のあらゆる困難を前にしても、兄弟姉妹の死を前にしても、希望を失ってはならないのです。唯一の希望である主イエスキリストを捨ててはならないのです。

 パウロは今日の箇所で「眠り」という言葉を二つの意味で用いています。10節の「眠り」が指すのは肉体の死です。この眠りは、救いにおいて違いをもたらすものではありません。一方7節の「眠り」が指すのは、信仰の眠りです。こちらの眠りは問題です。このような信仰の眠りに陥っている人々に、主の日の裁きが恐ろしい形で臨むのです。大切なことは兄弟姉妹の肉体の死に動揺することなく、今生きている者たちが信仰の眠りに陥らないことなのです。もし兄弟姉妹のなかで信仰の眠りに陥っている者があれば、その者を起こすことが必要でしょう。このようにして、励まし合い、お互いの向上に心がけることが教会の一つの姿なのです。

 もう一つ心に留めておきたいのは、わたしたちが「主と共に生きる」のは、主が死なれた目的でもあるということです(10節)。主イエスキリストが十字架上で死なれたので、わたしたちに主の日の救いが約束されているのです。わたしたちのヘルメットである救いの希望の正体は、キリストの十字架の死です。キリストの十字架が、主の日だけでなく今のわたしたちの歩みにも希望を与えています。わたしたちは聖餐式のパンとぶどう酒をとおして、このことを確認します。聖餐式をとおして、この確かな救いの希望が与えられていることに感謝をしましょう。また、聖餐式にまだ与っていない方には、この救いの希望に与る日を一日も早く迎えていただきたいのです。こんなにも確かな希望は、世の中のどこを探しても他にはないのですから。