聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章21~26節
無償の恵みをいただいて
ウェストミンスター小教理問答
問33「義認とは、何ですか。」
答「義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちのすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受けいれてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され信仰によってだけ受けとるキリストの義のゆえです。」
本日は宗教改革を記念する主日ですので「義認」について取り上げます。これを教えているウェストミンスター小教理問答の問33をさきほど共に読みました。わたしたちは神に義と認められることによって、救いにいたります。小教理問答問33の答えで最初に記されているのが「義認が神の一方的恵みによる決定だ」ということです。もともとの言葉はFree Graceという「無償の恵み」を意味する言葉です。義認とは無償の恵みです。その根拠として挙げられている聖句の一つが、今日の御言葉です。
この箇所は、前の内容からの続きで書かれています。前の部分でパウロは、神の御前に正しい者はだれ一人いないことを、旧約聖書を引用して示しています。パウロはこの事実を示すことによって、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない(20節)」と主張しています。それは「律法を実行しなければ、神の御前に義とされない」と主張する人々がいたからです。この主張が間違っていることを、パウロはここで示しているのです。そのうえで、「ところが今や、律法とは関係なく神の義が示された」と書くのです。ここで律法とは「律法を実行すること」で、それとは関係なく神の義が示されたのです。この神の義は、律法と預言者によって立証されたものです。律法と預言者は、旧約聖書全体を指します。そして旧約聖書が立証しているのは救い主イエスキリストです。旧約聖書にある律法を実行するという人間の行いによってではなく、旧約聖書が指し示す主イエスキリストによって神の義が示されたのです。主イエスキリストを信じることによって、神の義は信じる者に差別なく与えられるのです。
さて、ここで繰り返し用いられている「神の義」という言葉は、いったい何を指す言葉なのでしょうか。主に二つの面から言うことができます。
一つ目は、神の御性質としての義です。これは逆の面から言いますと、人間が持っていない義ということを意味します。神の義は完全であるがゆえに、人の考える不完全な義とはまったく性質の異なるものです。人間が持っていない義、神だけがお持ちの義。これが神の義です。それゆえに、人が頑張って律法を実行したところで、それを根拠にして神に義と認められるということは起こりえないのです。
二つ目は、神から与えられる義です。神はご自身こそが正しいお方であることを、世にお示しになりました。どのようにお示しになったかというと、正しくない人間にご自身の義を分け与えることによってです。旧約聖書全体が、それを示しています。アダムの堕落の出来事があり、人間は神の御前に正しい者ではなくなってしまいました。そのような人間に対して神は、ご自身の義を与えられ続けたのです。そしてついに神は御子キリストを、信じる者のための罪を償う供え物とされました(25節)。このようにしてこれまで犯され続けてきた罪を見逃すことにされたのです。こうして、主イエスを信じる者を、義に値しないにもかかわらず義とされたのです。主イエスが世に現れた今の時代においては、このようにして神の義が示されたのです。このことを端的に記した言葉が24節です。ここで無償と記されている言葉には、旧約聖書の時代から今に至るまで、義に値しない者を義とされ続けた神の正しさ、神の愛が込められています。それはまた、23節が前提となっています。すなわち、自分の力で神の栄光を受けられる人は誰もいないのです。皆罪人だからです。誰も神の栄光を受けるために、神に差し出すものは持ち合わせていません。そのような者を、神はキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義としてくださるのです。これが義認という出来事です。ですから「無償の恵み」という言葉が示すのは、お金を持っている人にも持っていない人にも安易に配られるような恵みではないのです。無償の恵みとは、神の御前に何も持ち合わせていない貧しい者に対して与えられる、神の恵みなのです。そしてこの恵みをわたしたちに与えるために、主イエスキリストは十字架上で血を流されたのです。
わたしたちが「神の無償の恵みをいただいた」と告白するとき、それは同時に、わたしたち自身が神の御前に何も払うことのできない貧しい者であることを告白ことにもなります。神が、わたしたちのために主イエスの十字架と復活という救いの道を開いてくださいました。そして神が、わたしたちに主イエスキリストを信じる信仰を与えてくださいました。こうしてわたしたちに、神の義が与えられたのです。この出来事のすべての主語は、「神」です。それは100%神の御業であるが故に、わたしたち自身はどれほど弱くても、わたしたちの救いは決して揺らぐことはないのです。わたしたちに与えられたのは、人間の義ではなく神の義だからです。そしてまさにこの点において、神の義が世に示されているのです。神の義が、本来は決して正しくはありえないわたしたちに与えられることによって、神が正しいお方であることが示されているのです。
このようにして神の義をいただいたわたしたちが、今度は神の義を世に示す番です。どのようにして、わたしたちは神の義を世に示すのでしょうか。人々から正しくないと見做されているような人々に、神の義を届けることによってです。わたしたち自身が、神に対して何の支払いもできない貧しい者でありながら、神から無償の恵みをいただきました。だからこそ今度はわたしたちが、無償の恵みを与える側になるのです。主イエスはマタイ10:8において「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言って弟子たちを宣教にお遣わしになりました。この御言葉に押し出されて、わたしたちも世の働きへと遣わされてまいりましょう。