2018年10月7日礼拝説教 「復活の恵みをキリストと共に 」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一4章13~18節

復活の希望をキリストと共に

 

 死は、キリスト者にとっても暗く悲しいものです。テサロニケ教会の中にも死がありました。それ故にテサロニケ教会は深い悲しみの中にありました。ここでパウロは「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しむな」と戒めています。キリスト者には、キリスト者の悲しみ方があるのです。

 兄弟の死を前にして、テサロニケ教会に一つの切実な疑問が起こっていました。それは、眠りについた兄弟は救われるのか、という疑問です。聖書の教える救いは、魂だけでなく肉体をも含んでいます。キリストが再び世に降って来られるときには、体も魂も清められ、完全に救われるのです。この当時、天に昇られたキリストはすぐにでも世に降って来られると強く信じられていました。ですから、主を信じる者は誰も死を迎えることなく、主イエスが世に来られる時を迎えると思われていました。しかしテサロニケ教会において、死を迎える者が出ました。彼らにとってそれは、想定外のことだったのです。目の前で兄弟が息を引き取り、その遺体は朽ちていくのです。すると、この兄弟の救いはどうなってしまうのか、この者は完全に滅んでしまったのではないか、という疑問が生じたのです。この疑問は、自分が死んだら救われないのではないかという疑問にもつながります。こうして、彼らの救いの確信が大きく揺らいだのです。

 この出来事に対するパウロの教えが「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」という15節の言葉です。ここでパウロが教えていることは、すでに眠りについた者の救いと、主が来られるときに生きている者の救いに全く差がないということです。パウロのこの教えには、確固たる根拠があります。主イエスキリストが死んで復活されたことです。このことが事実ならば、神は同じようにイエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導きだしてくださるのです。この事実をパウロは逆の面から「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。(一コリント15:17以下)」と記しています。このように主イエスの死と復活の出来事と、すでに眠りについた信仰者の救いには、強い結びつきがあるのです。なぜなら神は、信仰者をキリストの御跡をたどるようにして導かれるからです。わたしたちはキリストへの信仰によって救われます。わたしたちを救うキリストへの信仰とは、キリストの死と復活が事実であると信じる信仰なのです。キリストの死と復活が事実であるがゆえに、先に神に召された者が生きている者と同じように救いに与るのです。死の先に希望があることを、主イエスキリストの死と復活という証拠によって、わたしたちは確信することができるのです。

 さて、召された者と生きている者で救いに差がないことをパウロは15節までにおいて示しました。では、どのようにしてそのことが起こるかが16節以降に記されます。16節の始めでは、合図の号令、大天使の声、神のラッパが記されています。これらは、聖書の示している神の救いのときを指し示す言葉であろうと考えられます。まさにそのときに、主御自身が天から降って来られるのです。このとき、キリストに結ばれて死んだ者がまず最初に復活するのです。それから、生きている者が彼らと一緒に引き上げられるのです。こうして、いつまでも主と共にいることになるのです。「主と共にいる」とは、パウロが自らの人生において最終的に与えられる祝福と考えていたことです。この最終的な祝福は、生きている者とすでに死んだ兄弟が一緒に与るのです。

 主イエスキリストの死と復活を信じる者にとって、死は悲しみの出来事でありつつも、決して救いを左右するような絶対的な出来事ではないのです。なぜなら、生きていても死を迎えたとしても、信仰者が最終的に与えられる祝福は同じだからです。わたしたちには、終末において、世の最後において、主といつまでも共にいるという祝福が与えられることが約束されています。この約束された祝福は、死によっても、またその他どのような困難な状況によっても、決して変わることはありません。なぜなら、主イエスキリストが死んで復活されたからです。キリストが死んで復活されたから、わたしたちには変わることのない祝福が約束されているのです。

 

 大切なことは、この祝福が与えられることを約束されたわたしたちが、今をどう生きるかです。パウロは18節において「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」と記します。現実問題としてテサロニケ教会は、兄弟の死を前にして大きな悲しみの中にあったわけですし、教会の内外にも多くの問題がありました。同じようにわたしたちもそれぞれに、今の現実の歩みにおいて様々な苦労や悩みを抱えているのではないでしょうか。信仰者がそのような現実的な問題に悩まされるのは、当然のことなのです。なぜなら主イエスキリストは、死んで復活されたからです。キリストの死の先に復活があったように、わたしたちの今直面しているあらゆる現実的な悩みや苦しみの先に、その先にこそ、救いの希望があるのです。キリストの死と復活という確固たる根拠をもって、わたしたちはその事実を確認し、また励まし合うことができるのです。わたしたちがキリストの死と復活の恵みに与る者であるが故に、どのような状況におかれたとしても、たとえ今日死ぬとしても、神からわたしたちに与えられる祝福は決して揺らぐことはありません。神から与えられるこの大きな祝福に向かって、雄々しく強く、今を歩んでいこうではありませんか。