2018年9月30日礼拝説教 「兄弟愛について 」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一4章9~12節

兄弟愛について

 

 テサロニケの信徒への手紙は、4章から教会の具体的な状況を踏まえて記されたパウロの指示が記されています。前回見た8節までにおいてパウロが与えた指示は「救われた者として、生活を変えなさい」ということでした。これは、神に救われた人と、まだ神に救われていない人との境界線を明確にする必要があるということです。

 それに続く今日の箇所で記されているのは、兄弟愛についてです。救われた人とまだ救われていない人との境界線の問題ではありません。救われた兄弟姉妹どうしの関係が、ここで取り上げられています。つまり教会の中における愛の交わりのことをパウロはここで問題にしているのです。この兄弟愛については、あなたがたに書く必要はないとパウロは記します。それは、パウロの指示にしたがってテサロニケ教会の人々が行動していたからです。彼らは近隣の教会の兄弟姉妹のために、なにかしらの愛の業を行っていたのでありましょう。なお一層、この愛の業に励むようにパウロはテサロニケ教会を励ますのです。愛の業に完成はありません。これを求め続けていくことが、健全な教会の歩みでありましょう。

 さて、パウロは10節との関連で11節を記します。「努めなさい」という言葉は、熱心にそのことを求めなさいという意味です。熱心に求めるべきこととして言われていることは「落ち着いた生活をすること」「自分の仕事に励むこと」「自分の手で働くこと」の3つです。普通のことではないでしょうか。教会の交わりにおいて、このような普通なことを熱心に求めるようにとパウロは命じたのです。おそらくこの11節が、この箇所においてパウロがもっとも言いたかったことであると考えられます。裏を返せば、テサロニケ教会の中に、普通ではない怠惰な生活に走った人々がいたということを示しています。彼らはキリストへの信仰が過熱しすぎるあまり、このような生活になってしまったようです。あまりに信仰熱心になりますと、世の様々な事柄を軽く見る傾向が生まれてくることがあります。この傾向はわたしたちにもあります。神のために生きていれば世の中のことはどうでもいいのだ、という考え方です。一見信仰的に見えて、実は極めて自己中心的な考え方です。テサロニケ教会の場合にはこの考えが行きすぎてしまい、仕事を辞めて世の生活を放棄してしまう人々が出てきてしまったのです。テサロニケ教会はおそらく教会内の人々を支えることも熱心だったでありましょう。それをあてにして、自らの信仰の熱心を突き通そうとしたわけです。そんな彼らに対して、落ち着いた生活をしなさい、自分の仕事をしなさいとパウロは命じるのです。このように命じる理由を、パウロは12節で記しています。ここで挙げられている一番の理由は、教会外の人々からどのように見られるかです。ここでは、必ずしも外部の人々に対して誇り高く立派に歩むことが勧められているのではありません。11節と合わせてみるのであれば、地に足をつけて歩むことが勧められていると理解できます。教会の外の人々から見ても、「あの人たちは地に足をつけて生活しているね」と思われるような歩みが、教会の交わりにおいてなされなければならないのです。この当時の一般社会において、他人の労働をあてにして生活する人は軽蔑の対象でした。しかし信仰が過熱するあまり、あえて教会の支援をあてにする生活を送る人がテサロニケ教会にいたのです。このような人々の存在が、教会やキリスト教の評判を悪くしていました。教会やキリスト教の評判を悪くするということは、キリストの評判を悪くするということです。主を信じていない人から見て、キリストの評判が悪くなるような信仰の在り方ではいけないのです。

このパウロの戒めですが、これは前回わたしたちが学びました8節までで語られていることとは反対の側面が語られていると見ることができます。8節まででは、すでに救われた者の生活と未信者の生活が、目で見て違うということが大切だと教えられていました。それゆえに、世の常識ではなく、主イエスキリストに従った歩みを始めるように勧められていました。キリスト者は、世の常識から見て、ある意味で変わり者でなければならないのです。ただし、このことが行きすぎてしまう危険性を9節以降は示しています。教会の外の一般常識と、教会の中の当たり前がかけ離れてしまう。今の教会でも起こることがあります。テサロニケ教会では、信仰が過熱するあまり人々から軽蔑されるような生き方を選んでしまった人々がいました。しかしそれではいけないのです。なぜならキリスト者は地の塩、世の光だからです。キリスト者をとおして、キリストが世に伝えられていくからです。キリスト者はある面で変わり者でなければなりませんが、世の人々から後ろ指を指されるような変人になってはいけないのです。そうでなければ、いくら熱心に伝道したとしても、新しい方が教会に来ることはないでしょう。

 

 聖書にある「罪」という言葉は、的外れを意味する言葉です。そして罪人とは本来の姿から外れてしまった人のことを指します。ですから、主イエスキリストによる罪からの救いとは、普通の人、本来の人に戻ることです。本来の人とは、神が世界を創造されたときに「きわめてよい」と言ってくださった人の姿です。その姿に回復されているのが、キリスト者であるわたしたちなのです。本来の人とされたキリスト者は、世から見て変わり者であることと、普通であることの両面があるのです。しかしどちらの面においてもわたしたちが考えるべきことは、わたしたちの生活をとおしてキリストをどのように示すかです。ここにいるお一人お一人の生活において、キリストが世に示されていくのです。また、キリストを世に示す歩みをとおして、わたしたち自身が、神がお創りくださった本来の人の姿に回復されていくのです。