2018年9月2日礼拝説教 「愛で満たされる神 」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一3章9~13節

愛で満たされる神

 

 テサロニケの信徒への手紙一は、3章までの前半と4章からの後半で内容が分かれています。3章の最後に記されているこの祈りは、前半とのつながりから語られる神への感謝や願いと、後半へとつながるテサロニケ教会への勧めの言葉という両面を持ち合わせています。

まずパウロが11節において祈っていることは、神によってテサロニケへの道が開かれることです。これは、主なる神が人の道を導いてくださるという旧約聖書の理解に基づいています(箴言3:6等)。注目すべきは、人の道を開かれる神として、父なる神だけでなく主イエスをも挙げている点です。救いの道を開かれた主イエスご自身が、神としてわたしたちの道を導き、開いてくださるのだと、パウロはこの祈りで記しているわけです。

 続いて12節でパウロは、テサロニケ教会が愛で満ちあふれることを願います。愛で満ちあふれさせてくださるのは、主です。主とは主イエスのことと考えられます。ここでの愛とは神への信仰に基づく愛、神への信仰の結果としての愛です。信仰と愛は、一体的なものなのです。満ちあふれる愛として「お互いの愛」と「すべての人への愛」が挙げられています。お互いの愛とは、テサロニケ教会内での愛です。ここで意図されているのは、信仰を強めあうために、互いに戒めあい、善き生活をおくるよう励ましあう愛です。現在であれば、教会訓練や教会政治に相当します。これに続いて、すべての人への愛が挙げられています。愛は、すべての人にあふれ出さなくてはなりません。教会の外にも、教会を迫害する者に対してすらもなされる愛です。これらのその模範としてパウロは「わたしたちがあなたがたを愛しているように。」と付け加えるのです。その意図は「わたしたちがそうしているように、あなたがたも神の愛を示す行動をしなさい」という勧めです。パウロはこの祈りをとおしてテサロニケ教会に愛の行動を促しているのです。

 これらの内容を受けて、13節へと祈りが続きます。まずは13節冒頭の「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」という言葉から見ましょう。これと似た表現が旧約聖書にあります。ゼカリヤ書14章5節です。そこでは「わが神なる主は、聖なる御使いたちと共にあなたのもとに来られる。」と書かれています。ここで登場する「わが神なる主」が、わたしたちの主イエスであることを前提として、パウロは13節の冒頭を記しているのです。さて、13節の祈りも12節と同様に行動を求める祈りでありましょう。聖なる、非の打ちどころのない者への歩みを、今このときから始めるように。このテサロニケ教会への勧めが、この祈りには込められています。それは今の生きるわたしたちへの勧めとしても受け取るべきでありましょう。わたしたちにも、聖なる、非のうちどころのない者への歩みを、今このときからなすようにと、聖書は迫るのです。しかし、「わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者となる」とは、どのような姿を指すのでしょうか。実はパウロ自身が、自分は非の打ちどころのない者だと言っている箇所があります。すでにわたしたちが学びました2章10節です。

「・・・わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか・・・」

このように言っているパウロは、決して自分には罪はないと思っていたわけではありません。それは一テモテ1:15でパウロが自分のことを「罪人の中で最たる者」と記していることからも明らかです。ではどのような意味で2章10節の言葉が書かれたのでしょうか。それはパウロが、自分の利益ではなく神のために働いたことを示す言葉として語られているのです(7月22日の説教より)。ですから今日の13節の「聖なる、非の打ちどころのない者」とは、自分の利益のためではなく、どこまでも神の益のために愛をおこなう者のことを意味します。決して、完全無欠な人のことではありません。神のために、隣人のために、自分を捧げる愛に生きる者を指すのです。誰よりもこのような愛に生きた方がおられます。主イエスキリストです。主イエスご自身が、神の御心のために、そしてわたしたちのために、自らのすべてを捧げてくださいました。聖なる、非のうちどころのない者になるとは、この主イエスに結ばれて、主イエスに似たものとされていくということです。

 

 13節にあります「聖なる」という言葉は、人が持たず神だけが持つ神の御性質を表す言葉です。ですから、本来なら父なる神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者であることのできるお方は、神ご自身しかありえません。一方パウロは11節~13節の短い祈りの間において、幾度も主イエスご自身が神であることを示す言葉を書いています。主イエスが神であられる。それが、この祈りの根底にある事実です。つまりは、父なる神の御前に、聖なる、非のうちどころのない者として立つことができるのは、ご自身も神であられる主イエス以外にはおられないわけです。よってわたしたちが、聖なる、非のうちどころのない者となるには、主イエスを着るほかないのです。そのことによってはじめてわたしたちは、神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者とならせていただくことができるのです。わたしたちが神に受け入れられるために、神は主イエスをわたしたちにお与えくださいました。わたしたちに与えられた主イエスキリストをとおして、神はわたしたちにご自身の愛を満ちあふれさせてくださったのです。この恵みを受けたわたしたちが、キリストに似たものとして、キリストを着て、世で歩んでいくのです。このことによって、神からわたしたちに注がれた愛は、わたしたちからすべての人々へと豊かに満ちあふれていくのです。