2018年8月26日礼拝説教 「今わたしたちは生きている 」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一3章6~10節

今わたしたちは生きている

 

 今日の箇所において、パウロはテサロニケ教会の兄弟姉妹との交わりから大きな慰めを受けています。それはテモテからの嬉しい知らせによってもたらされました。パウロは自分がテサロニケに行くことができなかったので、テモテを送りました。そしてテモテが帰ってきて、テサロニケ教会の信仰と愛についてうれしい知らせを伝えました。6節の「うれしい知らせを伝えてくれました」という部分は、福音が伝えられたことを意味する言葉です。福音とは、神からもたらされた救いの知らせです。パウロはこの知らせを神からの嬉しい救いの知らせとして受け取ったのです。それはテサロニケ教会が迫害の中で持ち続けた神への信仰と、愛の実践についての知らせでした。そしてまた、彼らがパウロのことをいつも好意的に思い、またパウロに会いたいと願っていることを、パウロは知らされたのです。テサロニケ教会の兄弟姉妹は、人間的に見るならば、パウロの伝えた福音を信じることによってほとんど不利益しか被っていません。それでも彼らはパウロを好意的に思い続け、会いたいと願ったのです。これは常識を超えた、神の御業でありました。

 このような人間の常識を超える知らせを受けたのですから、パウロが7節で「あなたがたの信仰によって励まされた」と書くこともよくわかります。さらにパウロは8節で「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」と書きます。主にしっかりと結ばれているとは、主なる神を人生の土台として立っているということです。パウロはテサロニケ教会が主を土台としてしっかりと立っていることを確信しています。ですからここでパウロは、あなたがたが主にしっかりと結ばれているので、今わたしたちが生きているのだと、述べているわけです。テサロニケ教会が主を土台として立っていることは、パウロに命を与えることにもなったのです。これは裏を返しますと、テモテからの知らせを受けるまでパウロは死んだも同然の状態だったということをも示しています。7節の「わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも」という言葉にこのことが反映されています。パウロは、神からの召しを受けて福音宣教に人生のすべてをささげて生きていました。それにもかかわらず、このときそれがうまくいっていませんでした。人生のすべてをかけていることの結果が見えないのです。自分の生きる価値を疑わざるを得ない状況でした。そのようなときにテモテが良い知らせをもたらしたのです。この知らせによってパウロは、自らの宣教が無駄ではないことを、自分の人生にも価値が与えられていることを知ったのです。大切なのは、パウロがそのことをどこまでも神の御業として理解していることです。人が神を信じて救われるということは、奇跡的なことであり、神の御業です。だからパウロにとってテサロニケ教会が迫害の中で信仰を保っていたことは、神が自らの人生に確かな意味を与えてくださっているしるしだったのです。それゆえに彼は、テサロニケ教会が主を土台として立っていることを根拠にして「今、わたしたちは生きている」という言葉を記したのです。テサロニケ教会の兄弟姉妹が主を土台として歩むことをとおして、パウロは確かに神から生きる力を与えられたのです。

 さてわたしたちは、教会の交わりをこのような命を与え合うという観点で見ているでしょうか。わたしたちにも教会の交わりにつながれた兄弟姉妹が与えられています。異教の地である日本において、兄弟姉妹が与えられていることは奇跡的なことです。これを当たり前と思ってはなりません。教会の交わりは、そこにいる一人一人に神が確かに働いてくださっている証拠なのです。わたしたちは主にある兄弟姉妹の信仰をとおして、神の御業を見ているのです。ですからわたし個人の信仰は、兄弟姉妹の信仰に支えられ、命を与えられているのです。逆の面から見れば、自分の信仰が兄弟姉妹の信仰を支え、そして命を与えているのです。自分の歩みをとおして、兄弟姉妹に神の御業が示されるからです。教会の交わりは単なる人と人との関係ではなく、神の御業が示される関係なのです。それゆえに9節でパウロは、神に対してこの上ない感謝を表明しています。その神へのあふれる感謝の思いの中で、10節では顔を合わせてあなたがたの信仰に必要なものを補いたいとパウロは祈り願うのです。パウロは個人的な親しさの故に「あなたがたの信仰に必要なものを補いたい」と願うのではありません。どこまでも神様へのあふれる感謝のなかで記しています。パウロはテサロニケ教会の信仰のために必要を補いたいと願い、実際にそうしたのですが、これらすべてをパウロは神への感謝の応答として行ったのです。テサロニケ教会から受けた恵みも、そしてテサロニケ教会への奉仕の業も、パウロは神との関係のなかで理解し行動しているのです。このような、神に基を置く関係において、人と人との関係は好き嫌いや損得勘定を超えて真に愛の関係となっていくのです。それが実現するのが、教会の交わりなのです。

 今まさに、わたしたちはここにおいて兄弟姉妹をとおして神の御業を目の当たりにし、そして神から生きる力を与えられているのです。だからこそ、わたしたちはこの神に感謝をお返しする歩みをここから始めるのです。わたしたちのなす神への感謝の応答とは、兄弟姉妹の信仰に必要なものを補うことによってなされます。また神は、まだ信仰をもっていない人々をも招かれるお方です。この方々が信仰をもって救われるために、わたしたちがその方々の信仰に必要なものを補うこと。これも神様への感謝の応答として、心からの愛をもって行うことが、わたしたちにはできるのです。このような愛の関係の内にあって、「今わたしたちは生きている」と確信をもって言うことができるのです。わたしたちは教会の交わりのうちに生かされているのです。