2018年8月19日礼拝説教 「神による平和の計画 」

 

聖書箇所:エレミヤ書29章1~14節

神による平和の計画

 

 8月は日本において平和を考える特別な月と言ってよいでありましょう。誰もが平和を求めています。しかし、実際には明らかに平和から遠ざかるような動きもあるのです。それは人々がそれぞれに思い描く平和の姿が違うことに一つの原因があります。11節において神は直接に、平和の計画について言及しておられます。力強い、希望にあふれた御言葉です。ただこの言葉は、およそわたしたちが考える平和の姿とはかけ離れた状況において語られた御言葉です。

 1節を見ますと、この手紙を受けとった人々はエルサレムからバビロンへ捕囚として連れていかれた神の民たちであることが記されています。神の民ですから、わたしたちと同じ神を信じる信仰者です。そのような民が、バビロンという当時の強大な異教の国と戦争し、負けてしまいました。その結果異教の国バビロンに連れてこられてしまったのが、この手紙を読んでいる人々なのです。この当時、神の民が神を礼拝する場所は、エルサレムにある主の神殿でした。したがってバビロンに連れてこられた彼らは、神様を礼拝できない状況におかれました。エルサレムに帰って、平安の内に神を礼拝したい。これが彼らの願っていた平和の姿です。では彼らが思い描くこの平和が、どのようにして訪れることを彼らは願っていたのでしょうか。それは神による奇跡的な介入によってです。具体的には、神様が祖国を立ち上がらせ、強大なバビロンを滅ぼして、自分たちを救い出してくれることを願っていました。この願いを汲み取って預言したのが8節と9節に記されている偽預言者や占い師たちでした。彼らは「主なる神がこう言われる」という言葉と共に、神様が短期間のうちにバビロン帝国を滅ぼし、神の民である自分たちに平和がやってくると預言したのです。それは全能の神の御力にすがっているわけですから、一見すると信仰的な動機にも見えます。しかしその心に、大きな問題を抱えていたと言わざるを得ません。一つ挙げるとすれば、彼らが自らの願いに沿って神の言葉を語らせている点です。偽預言者や夢見る者は、人々の希望をくみ取って、それを神の言葉として語りました。それがいくら信仰的と思えるような動機であったとしても、神を自分の思いのままに動かそうとする心がそこにはあります。つまりは、神は信仰的な私の願い通りに動いてくれるはずだと思っていたのです。このような思いの大前提は、自らは信仰的で神の御心にかなった存在であるという、過大評価です。このような思いは、決して今を生きる私たちと無関係ではないように思います。

 預言者エレミヤは、神の御言葉を捕囚の民に語りました。それは「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べて、そこで子孫を増やすように」という命令でした。これらは捕囚の生活が長期化することを前提に語られています。捕囚の民の願った平和の姿とは、真逆のことがここでは語られています。あなたたちの考える形での平和ではなく、わたしの御言葉による平和があなたたちに与えられるのだと、神は語るのです。それが11節の言葉なのです。そして、七十年の時が満ちるときに故郷へ帰還できることが約束されます。ただしこれは、七十年後から平和の計画が始まるということを意味しません。バビロンで過ごす七十年という期間は、すでに神による平和の計画が行われている期間なのです。12節の「そのとき」という言葉は、彼らがバビロンで過ごす期間を指します。バビロンの地においても、神様への祈りが聞かれ、神様との出会いが約束されます。これは、神様を礼拝できるということを意味しています。エルサレムから遠く離れた異教の地バビロンにおいても、神様を礼拝することができるのです。その礼拝を神様は受け入れてくださるのです。この約束が、ここでなされているのです。それによって捕囚の民は、異教の地であるバビロンで平和を享受することができるのです。実際にはバビロン捕囚の生活において、彼らは多くの苦難を受けたことでしょう。しかしそのような中でも、神が共にいてくださることをバビロンにおける礼拝を通して確信することができたのです。このような神礼拝を通して、彼らに神の平和が与えられていくのです。

 

 捕囚の民が思い描いた平和の姿は、自らの悩みや痛みがすべて取り去られて神の御許に憩うことでした。しかしその平和は、結局は力でバビロンを滅ぼすことによって実現されなければならない平和です。他の人々を力で押さえつけて、自分は何の悩みも痛みもなくいられる平和です。これが人間の求める平和の姿です。わたしたち自身も、他の人を押しのけてでも自分だけは苦しまずに済むような「自分だけの平和」を求める傾向があります。そのような平和を求めている限り、真の平和は来るはずがありません。神はこれとは全く違う平和をもたらそうとされています。それは神を礼拝し、御言葉に聞き従うことによる平和です。それは、痛みや苦しみを自らに負う平和です。捕囚の民にとっては、虐げられながら異教の国で70年間も生活するという痛みを伴った平和でした。しかしその歩みを通して捕囚の民に平和が与えられたのです。この、痛みを伴う平和をわたしたちは求めていくべきでありましょう。何よりも主イエスキリストがもたらされた平和が、このような性格をもっています。主イエスは、十字架によって自らが打ち砕かれることによって、世に平和を打ち立てられました(イザヤ53章5節参照)。このお方を示しているのが神の御言葉であり、この御言葉に聞くのが神の礼拝です。ですから、自らの痛みや苦しみなしに、神の御言葉を聞き、神を礼拝することはできません。しかし痛みや苦しみに向き合って、心から御言葉に聞き、神を礼拝するときに、誰の命も奪われることのない神による平和が来るのです。その第一歩が、今わたしたちが捧げている、この礼拝なのです。