2018年8月12日礼拝説教 「苦難を受ける定め 」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一3章1~5節

苦難を受ける定め

 

 パウロは自分がテサロニケに行くことができないため、不安をつのらせ、ついにテモテをテサロニケに遣わすことにします。これはパウロにとって苦渋の選択でありました。なぜなら、テモテを遣わすことでパウロはアテネに取り残されることになるからです。これはパウロにとって、大変不安なことでした。しかしそれ以上にテサロニケのことが心配で、テモテを送るという苦渋の決断をしたのです。パウロはテモテのことを「わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者」と紹介しています。これが示すのは、テモテがパウロと同じ働きをする者として遣わされたということです。パウロがそれほどテモテを信頼し、そのような者を遣わすほどテサロニケ教会を心配していたのです。

 パウロがテモテを遣わした目的の一つは、あなたがたを励まして、信仰を強めることです。この当時において励まし強めるとは、主に教会に対して用いられていた表現です。パウロは迫害の中にある教会を強めるために、一人一人の信仰を鼓舞しようとしたのです。続いてパウロがテモテを遣わした目的の二つ目は、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためです。「動揺する」という言葉は、犬が尻尾を振ってじゃれつくことを意味する言葉が用いられています。ここでパウロが主に想定している動揺とは、主イエスから離れさせるような甘い言葉にじゃれついてしまうことです。この種の動揺は、今の世においても大変多いのです。主イエスキリストの救いではなく、他のことに魅力を感じてしまうことが教会でも起こりえます。この手の誘惑をパウロは何よりも心配し、そしてそのような動揺に陥らないようにテモテを遣わしたのです。このような動揺は、苦難と結びついています。信仰を守ることに苦難があるからこそ、他の魅力的なことにじゃれつきたいと思ってしまうからです。神の言葉を受け入れるということは、苦難が伴います。このことをパウロは、「わたしたちが苦難を受けるように定められている」と書いています。テサロニケ教会だけでなく、この手紙を書いているパウロ自身が苦難を受け、苦しみのなかにありました。そのような中でパウロは言うのです。救われた者は、苦難を受けるように定められている、と。しかもそれはすでに何度もテサロニケ教会に予告したことで、今それがその通りになっただけだ、と。

 ではなぜ救われた者が、苦難に定められているのでしょうか。それは主イエスキリストによって救われた者は、そうでない人とは違うものを大切にするようになるからです。それと共に、「定め」という面から言えばもう一つ理由があります。それは主イエスご自身が、苦難の定めを身に受けられたからです(ルカ2:34参照)。そしてその定めにしたがって、実際にご生涯において十字架への道を歩まれたのです。主イエスに救われた者と、キリストの教会は、この主イエスの御跡をたどる者とされています。それゆえに、苦難を受けるよう定められているのです。それは、教会が苦難を受けるというだけでなく、苦難が教会には必要であるとも言えます。教会は、主イエスの救いが実現する場所であると同時に、問題が多く苦労が多いところなのです。それは当たり前なのです。そしてもし教会に問題がないのであれば、本当にキリストに従う教会となっているのか省みる必要があるのです。わたしたちの教会に神様から与えられた重荷とは何でしょうか。考え続ける必要があります。それと共に今日の御言葉から学びたいのは、苦難を背負う教会に対するパウロの態度です。パウロは神の御業によってテサロニケに教会が建てられたと理解していました。それでも「どんな苦難があっても神が守ってくださるから大丈夫」とは思っていませんでした。苦しみのなかにあるテサロニケ教会を思って、じっとしていられなかったのです。5節には、テモテをテサロニケに送った理由が、パウロ自身の心の面から描かれています。誘惑する者があなたがたを誘惑してはいないだろうか、それによって、わたしたちがテサロニケで労苦したことが無駄になりはしないだろうか。心配で仕方なかったのです。テサロニケ教会に定められた苦難を、兄弟姉妹と共に担おうと必死になるのが、パウロの姿です。

 救われた者やキリストの教会にとって、苦難を受けることは定めです。よってあらゆるところに苦難はあるはずです。しかしそのような苦難や重荷を負っている兄弟姉妹や教会を前にして、わたしたちはじっとしてしまってはいないでしょうか。誰かが何とかしてくれることを願って、自分はなんの痛みも負わずに過ごしてはいないでしょうか。それは愛の関係ではなく、無関心です。この無関心は、世に溢れています。あらゆる人と人との対立、国と国との対立の根に、無関心があります。この無関心こそ、主イエスに救われた者が乗り越えなければならない罪の思いなのです。なぜなら主イエスがわたしたちに対して無関心ではおられなかったからです。十字架において、主イエスはわたしたちのあらゆる苦しみや痛みを共に担ってくださったのです。だからこそ、わたしたちも兄弟姉妹の苦しみに無関心であってはならないのです。主イエスの十字架によって救われたわたしたちは、兄弟姉妹のあらゆる苦しみや痛みを共に担う者とされているのです。苦しみや痛みを共にすることが、すなわち愛するということなのです。主イエスは「隣人を自分のように愛しなさい」と命じられます。隣人の苦しみや痛みを自分の苦しみや痛みとすることが、この戒めで求められています。だからこそ、キリスト者は苦難を受けることが定められているのです。隣人の苦難を共に受けずにはおられないからです。そこから出てくる行動によって、十字架に示された主イエスの愛は、無関心で溢れているこの世に姿を現すのです。